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ながさき今昔写真館

更新日:2023年3月10日 ページID:023246

ながさき今昔写真館

本ページでは、まちなかエリアの今昔の風景の変化を写真でご覧いただけます。
古写真の詳細は、長崎附属図書館 日本古写真超高精細画像データベース(http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/zoom/)をご覧ください。

中島川風景

1864年頃ベアトが撮影した中島川上流の風景。上野彦馬邸の前あたりから対岸を撮影したものである。この...

八坂神社

1638年に今籠町(現在の鍛冶屋町の一部)から現在の場所に移転した。1868年、明治維新の際に名称を「祇園...

南山手ベルビュー・ホテル入り口

大浦居留地のベルビュー・ホテル(現全日空ホテルグラバーヒル)入り口である。このホテルは文久3年(1863)...

興福寺開山堂と麹屋町

1864年頃、ベアトが撮った興福寺開山堂と麹屋町の通りである。幕末の長崎市内の街路の写真として最古の...

大浦川河口

大浦川中流から河口を見た風景である。手前の橋は弁天橋、その奥は下り松橋(松ヶ枝橋)。川沿いの広い...

中島川の古町橋と光永寺

現在、中島川河口から数えて17番目の橋で、麹屋町と古町を繋いでいる。古町側にある光永寺は1879年(明...

中島川河口

明治20年以前には中島川の河口は、現在の十八銀行の付近にあった。中島川河口に明治2年(1869)に新大橋が...

梅香崎招魂社

"明治元年の奥羽の乱、函館攻略の際戦死した振遠隊の隊員を祀った場所。現存せず、西小島町の大徳...

長崎市東濱町通

浜町アーケード中央の四つ角から油屋町の方向に少し進んだ地点。現在も営業している老舗の幟もみられる...

崇福寺山門

長崎市鍛冶屋町の黄檗宗崇福寺山門、龍宮門である。寛文13年(1635)唐僧、超然によって寺は創建された。...

長崎濱町川端電車通と鉄橋

正式名称は銕橋(くろがねばし)であるが、「鉄橋(てつばし)」の通称で呼ばれる。浜町アーケードの西側...

中島川と上野彦馬邸

上流に向けて上野彦馬邸周辺の中島川を写している。左手奥の白壁の家が彦馬邸である。 長崎大学付属...

長崎大浦外国人居留地

ベアト撮影。「ヨーロッパ人の居留地の一部と長崎の市街、65年6月」と記されている。慶応年間の長崎大浦の...

大浦天主堂

1865年(慶応元年)に完成。当時の俗称は「フランス寺」であった。現存するキリスト教建築物では日本最古...

伊勢の宮神社

伊勢宮は、諏訪神社・松森神社とともに長崎三社の一つといわれる。1901年(明治34年)に同社で行われた神...

長崎清水寺

長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は...

眼鏡橋

長崎市の中島川に架かる「眼鏡橋」。「桶屋町より磨屋町に架かる寛永11年(1634)僧如定造る所実に我が国眼鏡...

中島川阿弥陀橋と高麗橋

手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。近くには上野彦馬邸...

新大工町通り

明治中期の新大工町の町並みである。通りは広く、人力車があちこちに見える。慶長11年(1606)頃大工が集...

浜町通り

明治中期の濱町通りの四つ角から東濱町(現・浜町通り)を油屋町の方向に見上げている。手前の水路は、現...

大浦川沿い

"大浦川右岸の居留地建物群。丘の上のピンクの建物は東山学院。川沿いの建物の看板には「M. H. Cook...

グラバー邸と庭園

1863年(文久3年)の建築で、英国人の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーが居住していた住宅である。現...

大浦海岸通り

明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通り...

小島からの長崎医学校と唐人屋敷

長崎医学校は所管及び名称を変えながら、1868年(明治元年)から、1892年(明治25年)に坂本へ移転するまで...

館内から出島を望む

館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の...

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お問い合わせ先

まちづくり部 まちなか事業推進室 

電話番号:095-829-1178

ファックス番号:095-829-1175

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(18階)

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