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東部地区のとっておきの古写真は『ながさきE@STory』の中でご紹介していますが、本ページは古写真ではなく”いまの写真”で東部地区の魅力を発信。名付けて『【別冊】ながさきE@STory』。まずは、東部地区に伝わる”名工芸”を順次ご紹介していきたいと思います。
『現川焼』は、長崎市東部の現川地区で江戸時代に開窯(かいよう)した、鉄分の濃い粘土素地に刷毛目(はけめ)技法を駆使した陶器で、わずか60年ほどで廃窯となった“幻の古陶”である。
1 現川焼の歴史
諫早家の「日新記」によると、元禄4年(1691)に諫早家被官(下級の家臣)の田中刑部左衛門(たなかぎょうぶざえもん)が退職後、中島弥次兵衛(なかじまやじべえ)、二男甚内らとともに開窯(かいよう)し、寛延元年(1748)頃までの約60年間にわたり焼き継がれたとされる。
刑部左衛門は、肥前国松浦郡有田(現在の佐賀県西松浦郡有田町)に在住し、延宝8年(1680)、天和3年(1682)、貞和4年(1687)に菓子鉢や香炉を諫早家に献上したとの記録もあることから、現川焼開窯以前は有田で製陶に従事する職人であったことがわかる。
現川での開窯(1691)後は、諫早家や佐賀藩からの注文や領内や近隣周辺への流通、開窯から6年後には上方(京や大坂周辺)へも販路を広げていくなど、窯の経営も順調であったようだ。
ところが、宝永年間(1704~1711)になると、開窯に携わった中島弥次兵衛の隠居、窯からの出火に伴う甚内への処分(謹慎)、創始者・刑部左衛門の死去などが相次ぎ、注文が次第に減少し、さらに、元文3年(1738)に甚内が死去、延享年間(1744~1748)の頃からは経営不振に陥り、寛延2年(1749)にはすでに廃窯していたと記されている。
2 現川焼の特徴
現川焼の特徴といえば、やはり刷毛目(はけめ)技法であろう。
鉄分の濃い粘土を素地として、舟形、隅切などの器形に、フグの薄造りが施されているような「打刷毛目(うちはけめ)」や息を吹き掛け白化粧土を吹き広げた吹刷毛目(ふきはけめ)などを施し、四季折々を描いた絵柄を重ねた独特のデザインである。




3 ≪県指定史跡≫ 現川焼陶窯跡 田中宗悦の墓石1基・窯観音1基(堂を含む)
窯跡は、指定の観音窯の他に観音下窯、鬼木上・下窯が伝えられていたが、昭和58年(1983)の調査で鬼木上窯の規模が確認され、観音下窯の物原(ものはら、廃棄された陶器の山のこと)も把握された。他にも小屋敷、山川地区で窯跡の存在を予測する資料類の発見がある。
指定を受けているものは、観音窯登り窯跡と、陶工達の名が判る窯観音、開窯者田中宗悦(刑部左衛門隠居名)の墓碑がある。
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長崎大水害(1982)での河川の氾濫によって物原や遺物包含層が発見されたことがきっかけで現川焼窯跡の発掘調査が実施されたが、調査に携わった下川達禰氏(長崎県内の考古学の第一人者)によると、窯体 (胴木間から遺構発掘部分まで) の全長は予想をはるかに上回る約50メートル。
この規模での焼物制作は、隠居仕事といった簡単なものではなく、むしろ現川住民が総力をあげての大事業であったようだ。

4 現川焼の再現に挑む匠
幻の古陶・現川焼を復活し、その魅力を広く伝えるため、現川地区で再現に取り組む窯元がある。土龍窯(どりゅうがま)の向井康博(むかいやすひろ)氏である。
氏は、昭和58年から佐賀県嬉野市在住の陶芸家に弟子入り、昭和62年まで修行し、昭和63年に現川町に移り住んだとのこと。令和8年現在窯工房営業中である。
令和6年11月、「現川焼土龍窯新作うつわ展」の開催を知り、開催場所であるうつつ川森のぶんこうを訪れた際、氏から小さな栞をいただいた。それにはこう書かれていた。
『常住の物です』 ~ 土のもつ 温かさと柔らかさを 日常の器の中に表現できたら ~
美術品・工芸品として丁寧に飾ってもらうより、欠けてもいいから普段に使って、現川焼を身近に感じてほしいという氏の想いと作品の温もりが伝わってきた。
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5 東公民館講座「現川焼をつくってみよう!」
令和7年10月4日(土曜)、東公民館講座「現川焼をつくってみよう!」を取材した。
この日は第3回で、9月の第1回・第2回で受講者10名が手回しろくろを使って制作した花器と菓子皿が“焼き物”として受講者の手に帰ってくる日であった。
講師の向井氏が、現川焼の歴史などに関する講話のあと、一人ひとりに作品を手渡し、感想を述べた。
受講者は皆、自身の作品をうれしそうに眺め、ろくろを回したときの思い出を発表した。
普段はめったに体験できない貴重な講座であったであろう。(失礼ながら)受講者全員が小学生のような顔になっていた。

≪名工芸その2≫現川焼について
監修:向井康博氏
写真提供:田上春幸氏
参考:ホームページ『長崎県の文化財』(長崎県学芸文化課)、『幻の古陶 現川焼-田中丸コレクションを中心に-』(福岡市美術館田中丸コレクション解説第10号)、『ナガジン』(長崎市)、『現川焼窯跡発掘調査報告書』(長崎市教育委員会)、『長崎のやきもの~土と炎の里~』(下川達彌)
長崎市東部の古賀地区が誇る名工芸・古賀人形。京都の伏見人形、仙台の堤人形と並び、日本の三大土人形のひとつとされ、長崎県知事指定伝統的工芸品にも選ばれている。人や動物をモチーフとした、白、黒、赤、青、黄、緑といった原色の鮮やかな色使いが特徴。軍鶏を抱えた黒い中国服の男性を表現した「阿茶さん」など、現在88種類が完全手作業で製作されている。それだけに全く同じ物は2つとなく、数か月待ってでも手に入れたいという人は少なくない。
1 古賀人形の歴史
窯元である小川家の元祖・金右衛門は、もともと大村藩の藩士だったが、浪人となり、古賀村に移り住み、農業で生活を営んでいた。
その後、長崎を訪れた京都の土器師・常陸之介から土器の製法を伝授された3代目の小川小三郎が、農業かたわら、副業として神仏用や儀式用の土器を製造していたが、晩年の文禄元年(1592)からは小型の人形も作るようになった。これが古賀人形の始まりとされている。
土器や人形の製造はその後代々継承され、一方で小川家は長崎に向かう高官の休憩所でもあったため、古賀人形は長崎土産として諸大名などに広く人気となったそうだ。
小川家は藤棚の名所としても有名で、ある日、小川家を訪れた詩人が人形と藤を題材として句を詠み、短冊にしてぶらさげていたところ、その夜何者かに盗まれてしまったのだが、後日になって、その詩人は蜀山人(江戸後期の文人・大田南畝(おおたなんぽ)の別号)であったと知り驚いた、というエピソードも残る。
また、大正期には「松楓園(しょうふうえん)」という松茸をふるまう茶屋が当地に設けられ、絵葉書にもなっているが、丸山や三菱からの客人の名前が多く記された収入台帳(小川家所蔵)からも往時のにぎわいが想像される。
古賀人形は、昭和42年(1967)頃までは一族三家が継承してきたが、現在に至り、その匠は19代目の小川憲一氏のみとなった。
(参考:『2000年の東長崎』)
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| 長崎名勝図絵の古賀藤棚の頁 | 松楓園(絵葉書) | 小川家に残る松楓園の収入台帳 |
2 古賀人形の製造工程(クリックするとPDFで大きく見れます)
3 古賀人形(作品)
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| 阿茶さん(あちゃさん) | 西洋婦人(せいようふじん) |
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| 源義経(みなもとのよしつね) | 加藤清正(かとうきよまさ)(馬乗り) |
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| 角力取り(すもうとり) | オランダさん(おらんださん) |
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| 鶏猿(にわとりざる) | 花馬(はなうま) |
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| 鯨の潮吹き(くじらのしおふき) | 大狆(おおちん)・中狆(ちゅうちん)・小狆(こちん) |
4 古賀人形を継承する小川憲一さん
「小学生の頃は色塗りなどを手伝っていた。」小川さんが本格的に修行を始めたのは23歳頃。始めは見様見真似で一人前になるまで10年かかったそうだ。
人形を一窯分商品化するまでには3か月から半年を要するが、作業工程の中で最も集中するのが“目”と“口”を描く時で、それは必ず色付けの最初におこなう。なぜなら、人形の命ともいうべき目と口を色付けの最後にすると、失敗した場合にそれまでの工程が台無しになってしまうからだ。それだけ「顔」は古賀人形の特徴として重要な部分なのである。
「60歳を過ぎてから目が衰えはじめ、色付けも細かい部分に時間がかかるようになった。」小川さんはそう語ったが、そのわりには不安や焦りは少しも感じられず、むしろポジティブに向きあっていくような心構えに聞こえた。
「小川さんにとって古賀人形とは?」という最後の質問には、微笑みながら「家業だからね」と答えてくださった。その言葉と表情からは、古くより郷土に伝わる工芸を継承する者としての責任と人形づくりへの愛着がひしひしと感じられた。