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「外海の出津集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実施したのかを示す4つの集落のうちの一つです。
禁教期の出津集落の潜伏キリシタンは、自分たちの信仰を隠しました。彼らはキリスト教由来の聖画像をひそかに拝み、教理書や教会歴をよりどころとした暮らし方をすることによって信仰を実践しました。
また、この地域から多くの潜伏キリシタンの共同体が五島列島などの長崎の離島部へと移住しました。
解禁後、潜伏キリシタンは段階的にカトリックに復帰しました。
集落を望む高台に建てられた教会堂は、彼らの「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。
出津教会と旧出津救助院
1862年の絵図により出津集落の墓地がコミュニティごとに作られていることが分かります。
禁教期の墓は石塔ではなく当地で産出される結晶片岩を積み上げたものでした。
潜伏キリシタンの埋葬方法は「頭を南に向けて、膝を曲げて寝かせる寝棺」と言い伝えられています。
野中墓地の発掘調査では、この言い伝えの正しさが明らかになりました。
1 小田平墓地
2 菖蒲田墓地
3 野中墓地
4 畑杭墓地
出津集落内には、さまざまな神聖な品が秘匿され、密かに祈りが捧げられていました。
その中には、16世紀にヨーロッパから伝わったとされる聖母マリアをかたどった青銅製の大型メダル「無原罪のプラケット」(現在はド・ロ神父記念館蔵)をはじめ、庄屋が所有していた銅製の仙人像をイエズス会創始者のイグナティウス・ロヨラに見立てた「イナッショさま」(外海歴史民俗資料館蔵)、「聖ミカエル」及び「十五玄義」など数多くの絵画があります。
1867年にはカトリックに復帰するか否かについてキリシタンの間で意見が分かれ、「聖ミカエル」及び「十五玄義」の所有をめぐる争いが起こりました。
聖ミカエル図(長崎歴史文化博物館)
十五玄義図
※この2点の聖画は出津教会堂から浦上教会へとわたり、1945年の原爆により焼失しました。
焼失する前に複写した絵が残されています。
外海の出津集落は、角力灘に注ぐ出津川の流域に位置しています。
この集落には、次の史跡があります。