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学芸員コラム Vol.11(長崎居留地と戦争3 ~原爆投下と占領、復興へ~)


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ページID:0048896 更新日:2025年3月7日更新 印刷ページ表示

昭和20年(1945)8月9日、旧居留地から4~5km離れた松山町の上空で、原子爆弾がさく裂しました。傾斜地が多い特有の地形のため、原子爆弾の被害は長崎のまち全体に均等に広がらなかったといわれています。旧居留地も山影となり、洋風建築にはガラスの全損など大きな被害を受けたものもありながらも、総じて壊滅的な被害は免れました。しかし、人的被害がなかったわけではありません。前回に続き、活水女学校と海星中学校の様子を見てみましょう。
活水女学校は空襲に備え、木製ベンチなどの可燃物を屋外に搬出する作業中で、校内には多くの学生や職員がいました。海星中学校は、勤労動員などにより校内に人は少なかったそうです。突如襲ってきた爆風によって、校舎の窓ガラスは割れ、屋根や建具は歪み、天井や床も破損しました。校内にいた人々の多くが、飛散したガラスによって、また爆風に吹き飛ばされて負傷したそうです。

同年9月、進駐軍が上陸すると、宿舎や倉庫などとして使用するため、活水女学校や海星中学校の校舎、三菱長崎造船所の施設などさまざまな建物が接収されました。
旧グラバー住宅も接収され、アメリカ人将校とその妻が住みました。その妻が、自身は今、蝶々夫人の家に住んでいると空想したことが、のちに観光資源として活用されはじめるのですが、ここでは触れるだけにとどめましょう。
旧グラバー住宅には、戦中までトーマス・B・グラバーの息子、倉場富三郎が住んでいました。彼は憲兵から敵国のスパイとして厳しい監視の目を向けられるなかで、対岸の造船所を見渡せる自宅を昭和14年(1939)に退去し、そして終戦の直後に自害しました。彼が当時の長崎市長に宛てた遺書では、長崎市の復興に役立てほしいと、巨額を市に遺贈する旨が記されていました。

日本の占領が続くなか、昭和21年(1946)1月、進駐軍の主力部隊は佐世保へ移動します。活水女学校と海星中学校では、机も備品も失われた空虚な教室から、学校生活が再び始まりました。
一方、戦災を乗り越えた洋風建築たちは取り壊され、建て替えられていきます。このような古い建物の滅失は、高度成長の波を受け、全国で起こっていました。各地で市民や自治体による町並み保存運動が起こりましたが、これを受けて、昭和50年(1975)の文化財保護法改正によって、伝統的建造物群保存地区として、歴史的な町並みが法的に保護されるようになりました。長崎市でも昭和50年代の洋風建築の市有化や、市民による旧香港上海銀行長崎支店の保存運動などを経て、旧居留地の町並みが保存されるに至っています。

まだまだ語りつくせませんが、「長崎居留地と戦争」は、ひとまず今回で完結です。
長崎居留地で過ごした外国人には、長崎を愛し、長崎の人々と仲良くなった方も多かったでしょう。そんなお隣さんが、国同士の都合によって、ある日突然“敵”になってしまうのはとても悲しいことではないかと、終戦80年を迎えてしみじみと考えてしまうのです。

(長崎市長崎学研究所 学芸員 田中 希和)

東山手十二番館全景

東山手十二番館。明治元年(1868)建築と推定されています。昭和51年(1976)、学校法人海星学院から長崎市へ寄贈されました。現在は旧居留地私学歴史資料館(入館無料)として活用され、また旧居留地の桜の名所の一つとして知られています。

 

東山手十二番館窓ガラス

東山手十二番館には往時の技術でつくられた、いわゆる“歪みガラス”が残っています。画像でも、外の景色の一部が歪んで見えていますが、この様子をぜひ実際に現地でもご覧ください。

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