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戦争の足音が近づいてきた長崎のまちでは、様々なことが起こります。例えば、昭和13年(1938)、旧居留地の対岸、三菱長崎造船所で戦艦武蔵が秘密裏に建造されはじめると、大浦海岸のアメリカ領事館とイギリス領事館の前面あたりには「目隠し倉庫」が建てられました。
さて、居留地で育まれた文化には、教会やミッション・スクールなど、キリスト教と不可分のものも多くあります。明治22年(1889)発布の大日本帝国憲法では、条件付きながらも信教の自由が明文化されました。しかし、昭和15年(1940)に宗教団体法が施行されると、各宗教団体は文部省に事実上掌握され、国家総動員体制に組み込まれます。なかでもキリスト教団体は、外国ミッションからの財政的独立や、外国人宣教師との絶縁などが求められました。一方、外国人宣教師たちは、資産凍結、強制送還、本国からの帰国命令などによって、日本を去っていきました。
ここで、現在も東山手の丘にあるミッション・スクール、活水学院と海星学園のこのころの様子を見てみましょう。学生たちへの国家主義思想の浸透のために、御真影奉安や宮城遥拝などの国家神道と結びついた儀礼が求められるとともに、学校は教育と宗教の分離を迫られ、校舎内への聖堂の設置や、クリスマスをはじめとするキリスト教的行事が禁止されました。
その中で、活水女学校(当時)は、毎朝の国民儀礼のなかに聖書や讃美歌をはさみ、工夫しながら毎日の礼拝を守ったと言われています。また、卒業生が在校生へリボンを結んだ手桶を譲る卒業の儀式「魂譲り(たまゆずり)」は、絶えることなく行われました。(『活水学院百年史』)
他方、学生たちには、徴兵による労働力不足、そして兵員不足の補填さえも期待されます。学生生活に、勤労動員や野外教練が組み込まれていくのです。
『海星八十五年』によると、海星中学校(当時)の生徒たちは、勤労奉仕の一環で、香焼の川南造船所での作業や、近隣の田畑で農作業の手伝いなどをしたそうです。農作業の合間には仲間たちとふざけあうなど、10代の少年らしい姿も見られます。
しかし時局に伴い、全国的に修学年限が短縮され、若者たちは早々に労働力や戦力となることを求められるようになります。活水女学校や海星中学校の白亜の校舎は、空襲を避ける目的で、他の大規模な建物と同様に迷彩で汚されました。活水学院本館の塔屋の最上階の祈祷室では、対岸の三菱造船所を偵察する者がいないか、憲兵が監視を行っていました。
宣教師たちの高い志に始まり、言葉や文化を超えた交流によって育まれた伝統は、次第に戦争に侵食されていったのです。
(長崎市長崎学研究所 学芸員 田中 希和)
活水学院本館。大正15年(1926)竣工(一部昭和8年(1933)増築)。現在も教室、研究室、チャペルなどとして利用されています。
海星修道院。現在の建物は平成2年(1990)竣工。明治31年(1898)築の建物を解体し、大きさや外観がほぼ同じものを建てました。
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