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長崎市へのご意見・ご提案等の紹介


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ページID:0061615 更新日:2025年7月18日更新 印刷ページ表示

【ご意見(要旨)】長崎市「平和公園」における区域定義と記憶継承の明確化に関するご提案

年代:30代 受信:2025年 6月

貴職におかれましては、長年にわたる平和行政の推進と、被爆の実相を次世代に継承するためのご尽力に対し、心より敬意を表します。
さて、長崎市が整備・管理する「平和公園」について、近年における区域定義の拡張およびその運用・表記方法が、被爆の記憶継承において混乱を招いているとの声が市民の中で聞かれております。
特に、原爆落下中心地とされる「原爆中心地公園(被爆地公園)」と、平和祈念像のある「祈念ゾーン(北側高台エリア)」、さらに平成7年前後に「平和の森構想」の一環として編入された松山町陸上競技場周辺の緑地やスポーツ施設までが一体的に「平和公園」と総称されている現状において、それぞれの区域が有する意味や成立経緯が明示されず、被爆地としての核となる空間の輪郭が不明瞭となっていることに強い懸念を抱いております。
以下、具体的な歴史的背景および課題を列挙のうえ、ご提案を申し上げます。

【1】原爆中心地公園は、被爆後間もなく設置された慰霊・記録のための空間であり、「平和公園」としての整備とは別個の起源を持つ
1945年8月9日、北緯32度46分25秒・東経129度51分48秒に原爆が投下されました。当該地点には爆心地を示す碑が設置され、地層が露出されたまま保存されるなど、明確な記録・証拠の空間として維持されています。これは、戦後復興とともに後年設置された祈念像や泉とは異なる、事実に基づいた記憶の継承空間であり、象徴的な抽象性よりも「現場としての歴史的事実の重み」が優先されるべき場所です。
【2】祈念像エリア(いわゆる北側高台部)は、爆心地からやや離れた位置に設けられた象徴空間であり、後年の平和理念の反映として整備されたものである
1955年、被爆10年を機に設置された平和祈念像は、戦後復興を経た後の平和への願いを象徴する彫像であり、爆心地そのものではありません。したがって、原爆投下の直接的証拠地点とは本来の意味において別のコンセプトで整備された場所であるといえます。
【3】平成7年の「平和の森」構想により、松山町陸上競技場を含む広域緑地が「平和公園」に編入されたが、それに伴う空間的意味の整理が十分になされていない長崎市は被爆50周年を契機として「平和の森」再整備構想を策定し、公園の拡大と都市景観との一体化を図りました。これにより陸上競技場や緑地整備区域も「平和公園」と位置付けられましたが、それらが祈念像ゾーン・爆心地ゾーンと持つ歴史的意味において必ずしも同質とは言えません。近年、松山町エリアは長崎南北幹線道路の整備計画にも含まれており、都市整備と記憶継承の区分が行政文書・案内板・観光資料等で混同されている点が大きな問題です。

【4】「平和公園」という呼称が拡張されたことにより、事実と象徴の空間が構造的に混同され、記憶の継承が抽象化・形骸化するおそれがある現在の「平和公園」という呼称は、各ゾーンの意味の違いを無視した一元的な使われ方をしており、原爆中心地という被爆の核心を曖昧にしかねない表記上の問題を孕んでおります。観光客や教育現場での混乱だけでなく、被爆者・二世・三世にとっても「祈る場」と「起きた場」を区別できない状態は、記憶の継承に対する精神的・倫理的障壁となります。

【ご提案】
上記課題を踏まえ、以下の措置をご検討くださいますようお願い申し上げます。
原爆中心地(爆心地公園)を、「平和公園」の中核または別立ての空間として、行政的・案内的に明確にゾーン分けし、標識や観光マップ、Webサイト等でも明記すること。
祈念像ゾーンは「象徴・祈りの場」として、原爆中心地とは異なる歴史的背景を持つことを明示し、両者の関係を丁寧に解説する案内文を設置すること。
松山町緑地・陸上競技場エリアについては、「平和の森ゾーン(付属緑地)」等のように区分し、爆心地との直接的関係性の有無を明確にする表記整備を行うこと。
都市整備(長崎南北幹線道路等)との整合を図るにあたり、歴史的意義との整合性確保に関する有識者・市民代表を交えたワーキンググループの設置を検討すること。
被爆の記憶を守るとは、単に慰霊碑を建てることではなく、「その場所の意味を、未来に曖昧なく伝える仕組み」を確立することに他なりません。空間が象徴化・観光化される一方で、最も大事な原点が埋もれてしまう構造に対して、いま一度再考をお願い申し上げるものです。
市民の一人として、また被爆三世の立場から、記憶の継承に対する責任と願いをもって本ご提案をお送りいたします。

【回答】 土木企画課

回答日:2025年7月18日

平素より本市平和行政・公園行政にご理解・ご協力を賜り感謝申し上げます。
 ご提案いただきました平和公園は、昭和26年(1951年)に、現在の原爆落下中心地や平和祈念施設がある東地区と、県営野球場、ラグビーサッカー場、陸上競技場、庭球場や弓道場がある西地区を一体として開設された総合公園です。起源としては、昭和24年(1949年)に公布された長崎国際文化都市建設法に基づく、長崎国際文化都市建設計画のなかで、爆心地周辺に文化会館、文化公園、運動公園を建設することとしたものであり、運動公園については、スポーツを通してその精神的結合を図り、世界平和に寄与しうる環境を造るために、各種目の競技を一堂に会して開催し得る規模を持つ総合運動公園を目指し整備されました。
 被爆50周年(平成7年)に向けて、平成5年3月に、平和公園聖域化検討委員会により原爆落下中心地を聖域化するとともに、平和祈念像を有する「願いのゾーン」、原爆落下中心地を有する「祈りのゾーン」、原爆資料館(当時は国際文化会館)を有する「学びのゾーン」が位置づけられました。その後、平成6年3月に、平和公園再整備検討委員会により「平和公園再整備基本計画」が報告され、原爆遺構や平和祈念施設を備えた東地区と、自然やスポーツレクリエーションを通じた市民の交流空間となる西地区を結びつけることによって平和交流を実践していく「平和の森」というコンセプトが定められました。
 現在では、多くの市民や観光客などに利用されている長崎市を代表する重要な公園です。令和3年に、長崎市と佐世保市を約1時間で結ぶ道路計画の一部である「長崎南北幹線道路」が都市計画決定され、スポーツ施設の再配置が必要となるなど、平和公園を取り巻く状況は変化していることから、令和7年6月に「平和公園(西地区)再整備基本計画」を策定したところです。
 「平和公園(西地区)再整備基本計画」の策定にあたっては、平和関係団体を代表する者を含む委員で組織する平和公園再整備基本計画検討委員会を設置し、検討を行ったものであり、今後は、スポーツ施設の設置や改廃、更新を進めてきた西地区の「スポーツゾーン」としてのコンセプトを継続し、順次再整備を進めてまいります。ご提案いただきました各ゾーンの案内につきましては、再整備における今後の設計にて検討いたします。
 参考に、平和公園を紹介するウェブサイト
(https://www.city.nagasaki.lg.jp/page/2019.html)及び平和公園(西地区)再整備基本計画のウェブサイト(https://www.city.nagasaki.lg.jp/page/58953.html)をご参照ください。

関係所属

土木企画課
(連絡先は課のページをご覧ください)

(注)掲載されている回答は回答時点のものであり、その後の社会情勢や制度の改変などにより、最新の回答と異なる場合があります。