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本木昌造の墓


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ページID:0001190 更新日:2024年11月11日更新 印刷ページ表示

本木昌造の墓

(もときしょうぞうのはか)

市指定史跡

本木昌造の墓

指定年月日 昭和60年9月20日

所在地 長崎市鍛冶屋町5番74号

本木昌造の墓碑は、大光寺後山の本木家墓域にある。昌造は文政7年(1824)新大工町乙名(おとな)北島家の4男として生まれ12歳の時本木家の養子となり、稽古(けいこ)通詞と小(こ)通詞末席(21歳)、小通詞(30歳)を勤めている。昌造は豊かな天分に恵まれ、各分野にその才能を発揮し、海軍伝習掛通弁官・飽ノ浦製鉄所御用掛、活字板摺立所取扱掛を歴任。船の操縦術にも優れ、また慶応4年(1868)には浜町と築町間の中島川に日本最初の鉄橋を架設した。幕末から明治にかけて、長年近代印刷の開発に情熱をかたむけ、明治3年(1870)新町(現在の興善町)に新町活版所を設け、活字製造と印刷を開始し、近代印刷の基を築いた。

備考

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(補足)地図は目的地周辺の概ねの位置を示しています

  1. 路面電車「崇福寺」下車徒歩5分
  2. バス「崇福寺入口」下車徒歩5分