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前回、唐人とは、江戸時代に、現在の中国をはじめ、東アジアや東南アジアから来た外国人だったことをご紹介しました。今回は、この唐人たちが長崎のまちのどこにいたのかご紹介しましょう。
長崎がポルトガルの貿易港として栄えていたころ、明では海禁が解かれ、唐人は長崎ほか、国内のさまざまな港に来航していました。しかし、貿易システムの掌握を図る江戸幕府は、日本人の海外渡航や帰国を禁止した寛永12年(1635)に、唐船の寄港を長崎に限定します。
貿易のため長崎を訪れた唐人たちは、長崎で、日本人の家に泊まったり、貨物を預けたりしていました(「船宿」や、その後の「宿町」制など)(このように、住む場所などが特定のエリアに限定されないことを内地雑居といいます)。また、唐船には航海安全の神様、「媽祖(まそ)」がつきものです。唐人たちは媽祖像を安置する施設をつくりましたが、これが黄檗宗(おうばくしゅう)寺院、いわゆる「唐寺(とうでら)」です。
ところが元禄2年(1689)、密貿易やキリスト教の伝播を危惧する幕府によって、唐人たちは新たにつくられた施設、堀や塀で囲われた唐人屋敷(唐館とも)に収容され、自由な出入りは許されず、政策上は日本人から“隔離”されることになりました。貨物はその後も日本人の家に預けられましたが、元禄11年(1698)の火災で貨物が焼け、唐人たちは莫大な損害を被ります。これによって新たに設けられた人工島が、新地蔵所です。
この新地蔵所、現在では新地中華街として親しまれています。しかし江戸時代は倉庫専用の島で、人が住む場所ではありませんでした。
変化が起こったのは、安政6年(1859)の自由貿易港としての長崎開港です。外国人たちは日本人から隔離される理由がなくなります※。こののち、港に近い新地に移り住む人々が出てきたそうです。一方で、明治3年(1870)、閑散とした唐人屋敷を大火が襲います。結局、唐人屋敷はこのまま荒廃し、さらに明治4年(1871)の日清修好条規締結によって唐人屋敷は解体されました。
ちなみに、唐船貿易最後の船主や商人たちは、帰帆地が戦乱にさらされていたために長崎に留まりましたが、彼らが長崎華僑の先駆けとなっていきます。時代の移ろいに従い、長崎の日本人と外国人の関わりは、万華鏡のように変化していくのです。
※幕末の開港によって、外国人が居住や業務のために日本で滞在する場所には、出島や唐人屋敷と異なり、外周を塀や堀などで囲われていないエリアが設定され、外国人へ有償で貸し出されました。これが外国人居留地です。
(長崎市長崎学研究所 学芸員 田中 希和)

唐船の航海安全の女神、媽祖。これは唐人屋敷内の天后堂に祀られている様子です。

長崎ランタンフェスティバルの、媽祖行列の様子。奥に見える神輿に媽祖像を載せ、入港後の唐船から媽祖堂へ向かう様子、また出航時の媽祖堂から唐船へ向かう様子を再現しています。
画像出典:長崎市オープンフォトサイト(長崎市歳時記)<外部リンク>
「26-49 2007年長崎ランタンフェスティバル媽祖像」
「26-44 2010長崎ランタンフェスティバル媽祖行列」