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「いわゆる鎖国の時代、唯一の幕府直轄港である長崎には、オランダや中国の貿易船が来航した」。よく見かける説明文です。現在、出島を訪問すれば、この人工島がポルトガル人を収容するためにつくられ、のちにオランダ人が来航、滞在した歴史を知ることができます。
しかし、中国人は?中国らしい場所、唐人屋敷の“唐人(とうじん)”って何?中国の王朝「唐」は何百年も前に滅んだのでは?…最近、このように頭を抱える方にお会いしました。いい着眼点です!今回は “唐人”と呼ばれる人々に注目してみましょう。
17世紀前半、中国大陸では200年以上続いた王朝の明、そして新興勢力による清との動乱が数十年続きました。このとき、日本へ流亡してきた明の人々は、清の民ではないことを示すために、自ら唐人を名乗ったと言います。
一方で、日本人にとって、唐は遣唐使を派遣し、先進文化を学んだ地域です。中世の戦乱に耐え、いよいよ経済的、文化的に発展しようとしている日本にとっては、生糸や織物、薬などの舶来品を運んでくる唐人は、歓迎すべき先達だったのでしょう。なお、唐(とう、から)の語は、外国一般を指す語として使われる場面もあります。
さて、唐人が乗ってくる船、唐船(とうせん、からふね)の出自を見てみると、さまざまな地域があります。現在の中国(中華人民共和国)の地域では福州、南京、広東、寧波、厦門などがありますが、それ以外の地域では、現在のタイやベトナム、インドネシアなど、東南アジアからの船もあります。日本人が言う唐人は、「“唐”の方から来た、西洋人ではない外国人」くらいのニュアンスだったのでしょう。(ちなみに、長崎開港から江戸時代のころ、日本人にとって馴染み深い西洋人のうち、ポルトガル人やスペイン人は「南蛮人(なんばんじん)」、オランダ人やイギリス人は「紅毛人(こうもうじん)」と呼ばれていました)
今回のコラムは「“唐人”とは外国人、おおむね現在の中国から来た人々を指すが、時にアジアの他の地域から来た人々も含む」と締めくくりたいと思います。
なお、唐船からの輸入品で大きな割合を占めたのは砂糖です。江戸時代を通して見ると、その輸入量はオランダ船からの輸入量を大きく上回ります。そんなことを説明しながら、私は今日も誰かへ銘菓「一口香(いっこっこう)」を手渡し、その反応をうかがうのです。
(長崎市長崎学研究所 学芸員 田中 希和)
「寛文長崎図屏風」(長崎歴史文化博物館蔵)の、長崎に停泊する唐船が描かれた箇所の抜粋。左は大黒町・恵美須町あたり、右は元籠町(現在の籠町の一部)あたり。船にはそれぞれ左から「かうち」(コーチ:交趾、こうしとも)、「しやむ」(暹羅)、「ちやくちう」(漳州)、「とんきん」、「しやかたら」(ジャガタラ:ジャカルタとも)、「はんたむ」(バンタム:バンテンとも)との説明が書かれています。現在は中華人民共和国の漳州のほかは、タイやベトナム、インドネシアの地域です。
唐辛子、唐芋(からいも。サツマイモの異称)、唐黍(トウキビ。トウモロコシの異称)など、名前に“唐”がつき、外国原産であることを現在に伝えるものがあります。(ちなみに“もろこし”は唐土とも書きますが、これは唐の王朝を指す語です)
一口香。唐船の保存食を起源とする説がある、黒糖を使ったお菓子。初めての方は、ご自身の歯を気遣いながら召し上がってください。中身は内緒です。