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西暦 | 年齢 | 出来事 |
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1899年(明治32) | 0歳 | 10月1日、東京市本郷に父彌三、母信の長男として生まれる。 |
1911年(明治44) | 12歳 | 彌太郎の虚弱な体質を案じた父が弟の謙次郎と共に父の郷里の祖母のもとに転地させる。これにより長崎県北高来郡小野村立小野尋常小学校に転入学させるが、父が神戸に転任となり、すぐに神戸で暮らすようになる。 |
1920年(大正9) | 21歳 | 関西学院中学部を卒業、東京美術学校を受験するが失敗。これにより画家として生きることを強く決意する。 |
1922年(大正11) | 23歳 | 代々木にアトリエを新築。 |
― | ‐ | 第9回二科展で「女」が初入選。 |
1924年(大正13) | 25歳 | 第11回二科展に「少女と静物」「夏日夕景」「室内裸婦」の3点が入選し評判となる。 |
1925年(大正14) | 26歳 | 沢野菊枝と結婚。 |
1926年(大正15) | 27歳 | 「1930年協会」が結成され会員となる。 |
1929年(昭和4) | 30歳 | 5月、妻菊枝とともにヨーロッパへ渡る。1933年3月帰国。 |
1930年(昭和 5) | 31歳 | サロン・ドートンヌに「二人女性像」「カーニュ・スル・メール風景」が入選。 |
1931年(昭和6) | 32歳 | サロン・ドートンヌに「港のカフェ」「リヨンベルクール広場」が入選。 |
1932年(昭和 7) | 33歳 | サロン・ドートンヌに「門」「巴里の眺」が入選。 |
1933年(昭和 8) | 34歳 | 3月、帰国。二科会を脱会し独立美術協会会員となる。 |
1949年(昭和24) | 50歳 | 日本大学 芸術学部教授に就任。1970年(昭和45)に退任。 |
1960年(昭和35) | 61歳 | 5月、再渡欧。パリ、レヌワール通りにアトリエを定める。1962年4月、帰国。 |
1964年(昭和39) | 65歳 | 「国際形象展」が組織され、同人となる。 |
― | ‐ | 1月、第5回毎日芸術賞を受賞する。(野口彌太郎滞欧作品展が評価される。) |
1972年(昭和47) | 73歳 | 3月、紺綬褒章を受章する。 |
1973年(昭和48) | 74歳 | 3月、第11回国際形象展出品の「那智の滝」により第23回芸術選奨文部大臣賞を受賞する。 |
1975年(昭和50) | 76歳 | 4月、勲三等瑞宝章を授与される。12月、日本芸術院会員となる。 |
1976年(昭和51) | ‐ | 3月14日、アトリエで「カーニュの印象」を制作中倒れ入院、3月23日死去する(76歳)。同日、正五位に叙せられる。 |
1993年(平成 5) | ‐ | 4月、長崎市野口彌太郎記念美術館が開館する。 |