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追悼電鐵原爆殉難者の碑


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ページID:0002020 更新日:2024年11月11日更新 印刷ページ表示

追悼電鐵原爆殉難者の碑

追悼電鐵原爆殉職者の碑

 台座廻りと前面地上に電車線路敷石
折り鶴掛と登り段両側に電車線レール
殉難者が多かった
五島の安山岩自然石前面に戦時中の使用電車のスポーク付車輪
碑石
外枠地引並に台座
追悼碑使用資材
原子爆弾のさく裂によりこの人達は電車のハンドルを握ったまま車掌カバンを抱いたまま、中にはいまだ十二歳の少女車掌を含め一一〇余人の若い命が、多くの乗客と共に悲惨にもその犠牲になったのであります
この輸送に当たった市内電車の運転士車掌は交通戦士の名のもとに男子女子挺身隊学徒動員の一〇歳台~二〇歳台初めの人たちでした。
太平洋戦争末期戦火は益々厳しく造船兵器工場のある長崎の街は戦時体制の中で、大量に動員された通勤者や一般市民の輸送は最大の急務で特に朝夕のラッシュ時の混雑は想像に絶するものでした。
被爆した旧下の川停留場ホーム縁石

浜口町電停石垣

被爆当時、電車軌道は浦上駅前電停から長崎医科大学附属医院(現在の長崎大学医学部附属病院)の下を通り、浜口町電停に出てから大橋の終点まで続いていた。浜口町電停から下の川電停までは民家が軒を並べ、道路との高 低差のためにこの石垣が築かれていた。
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、爆心地から南へ約400メートルの距離にあった浜口町電停付近は原子爆 弾のさく裂により壊滅状態となり、浜口町電停から爆心地に近い松山町電停の間では4台の電車が被爆し、多数の 乗客や乗務員が亡くなられた。
その後、2000年(平成12年)に国道206号線の拡幅工事のため石垣の一部がこの地に移設された。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。

2003年(平成15年)3月 長崎市(原爆資料館)

  • 設置年月日 昭和62年3月1日
  • 設置者 電鉄8月9日の会 代表:和田耕一
  • 設置目的 電鉄原爆受難者追悼のため被爆時の下の川電停ホーム縁石使用
  • 材質 碑石:五島産安山岩自然石 スポーク付き車輪電車線レール