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(きたげんきひつ とうらんおしょうほうぞう)
指定年月日 昭和50年3月10日
所在地 長崎市筑後町2番56号 福済寺内
元禄8乙亥年(1695)7月、福済寺三代住持唐僧東瀾(56歳)は唐僧喝浪(33歳)を第四代住持として霊鷲庵(りょうじゅあん)に隠居した。法像の上部の自賛に乙亥の日付と喝浪の文字が詠み込んであるので、この住持交代を記念するものであるのに相違ない。画者は黄檗画像の代表的作家である喜多元規で、「喜多氏」「元規」の二顆がある。新しい若い住持の喝浪がこの大きな法像を作ったので、東瀾の師である慈岳のも大きく作ることになったと想像することができる。確たる史料があるわけではない。喝浪は11年後、44歳で示寂(じじゃく)し、 年老いた67歳の東瀾が再び住持となり、翌年唐僧東瀾は68歳で示寂したのであった。