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西川如見の墓


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ページID:0001230 更新日:2024年11月11日更新 印刷ページ表示

西川如見の墓

(にしかわじょけんのはか)

市指定史跡

西川如見の墓

指定年月日 昭和48年7月27日

所在地 長崎市寺町長照寺後山墓地

西川如見(1648~1724)は、通称を治郎右衛門、名を忠英、号を求林斎と称した。はじめ南部草寿(なんぶそうじゅ)について儒学を学んだが、後に小林謙貞(こばやしけんてい)について天文学や暦学を学び、当時、わが国を代表する天文学者と称された。享保3年(1718)将軍吉宗は特に如見を召して、天文学や暦学についての意見を聞き、それを参考にしたといわれる。著書には、わが国最初の世界地理の書物といわれる「増補華夷通商考」や、「日本水土考」、「四十二国人物図」、「天文義論」など多数がある。また、長崎の地誌として知られる「長崎夜話草(ながさきやわぐさ)」は、如見の談話をその子正休(忠次郎)が筆録したものである。

備考

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路面電車・バス「市民会館」下車徒歩10分