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(まつだいらずしょのかみぼち)
指定年月日 昭和50年12月5日
所在地 長崎市鍛冶屋町5番87号大音寺境内
松平康英(1767~1808)は、文化4年(1807),81代長崎奉行(高2000石)となる。
初め名を康秀または、康平ともいい、任官(じんかん)して図書頭といった。当時ナポレオン戦争でオランダはイギリスと交戦状況にあり、文化5年(1808)8月15日、イギリス軍艦フェートン号が、長崎港に不法侵入し、オランダ商館員2名を人質にとり、燃料・水・食料を要求した。その時の長崎警備佐嘉藩(さがはん)は警備を怠り、四囲の各藩も消極的であったので、英艦の要求を全て入れ、艦は8月17日出航した。康英は責任を痛感し、始末を記述した遺書を残して自殺。当時町民は深く哀悼の意を表し、諏訪神社境内に康平社(こうへいしゃ)を祭った。
備考
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