『カルルス中川の桜』/長崎大学附属図書館所蔵

古くから海外貿易で異国との繋がりが色濃くあった長崎の町だが、それは中国やオランダなどの限られた国のことだった。安政の開国により開かれた海外貿易港長崎には、外国人によって伝授された多国籍の「異国文化」が入り込んできた。


ズバリ!今回のテーマは
「長崎の今を形づくる明治期にやって来た異国文化に迫る!」なのだ




安政6年(1859)、英国の汽船会社が長崎−上海を結ぶ定期航路を開設した。グラバーをはじめとした居留地の外国人達が利用した船だ。以来、上海に近い長崎は、近代技術の窓口として、または貿易の重要な中心地として、そして石炭補給港として繁栄していった。


『長崎税関』
長崎大学附属図書館所蔵


『石炭積み光景』
長崎大学附属図書館所蔵

開港から明治維新を迎えるまでの幕末の出来事は、2010年の「龍馬ブーム」に乗って、かなり知識を深めた方も多いことだろう。そこで今回のナガジンでは、それから先の長崎、明治の町の様子や人々の暮らしの変化を追ってみたい。

明治元年(1868)、これまで外国船の入港を監視していた野母崎の権現山に設置されていた遠見番所の廃止の達しが出る。
※2010年12月 ナガジン!特集「犯科帳が教える江戸期の長崎」参照
 

異国人から伝わった
今は定番の習慣&風習
開港後すぐに造成しはじめた外国人居留地。出島、新地蔵に続き、海岸道路が拡幅のために埋め立てられていったのは幕末のことだった。明治初年には、バンドと呼ばれる遊歩道を兼ねた水辺の海岸道路も完成。港風景も続々と変化していった。


『ドンの山から見た出島と長崎港』
長崎大学附属図書館所蔵

幕末よりすでに極東に不凍港を求めるロシア艦隊の休息地となっていた対岸の稲佐地区では、ロシア人乗組員が休息をとり、物資を補給する「稲佐ロシア人休息地」通称「ロシアマタロス休憩所」が設置され、ロシア艦隊の乗組員向けの稲佐遊郭や、レストラン、ホテルなどロシア文字の看板を掲げた店が建ち並ぶ。明治前半の稲佐では、小さな子どもさえ片言のロシア語を話すほどで、この頃、古くから中国人が帰依し、出島のオランダ商館長なども眠る悟真寺の国際墓地の南側には、ロシア兵の射的場ができる。明治後期には、一年足らずで廃刊となったが、ロシア語の新聞「ウオリア」も創刊。稲佐でロシア人を接客した稲佐お栄こと、道永栄は、旧茂木村の庄屋屋敷跡に建つ木造2階建寄棟造の茂木ホテルを譲り受けて経営する。
※2009年4月ナガジン!特集「稲佐山のすべて」参照


『お栄のホテルでくつろぐ軍人と女たち』
長崎大学附属図書館所蔵


『茂木長崎ホテル』
長崎大学附属図書館所蔵

一方この頃、丸山遊女達の憩いの場であった大徳寺境内には、今も現存する梅ケ枝焼餅屋「老舗 菊水」が創業する。



政府が神仏分離令をし、明治元年に大徳寺は廃寺。すでに享保4年(1719)に移築されていた梅香崎神社(天満宮)だけが残った。「寺もないのに大徳寺」と長崎七不思議に唄われるこの地は、長崎港を見渡す景勝地。

『大徳寺遠望』
長崎大学附属図書館所蔵

参詣客も相まって、名物・梅ヶ枝焼餅を出す店が続々でき賑わった。


『長崎大徳寺茶店』
長崎大学附属図書館所蔵
丸山遊女の特徴のひとつである衣裳にも幕末の頃から変化が…一貫して華美ではあるが、自然な素人風の美服を身につけた遊女が増えていく。


『丸山遊郭』
長崎大学附属図書館所蔵

開国後の明治5年に遊女屋廃止と共に貸座敷営業が許されるようになると郭外に出ることは禁止。名付遊女にも遊女屋にも各30両の罰金が科せられた。すると、遊女を呼び迎えることができなくなった外国人のために遊女に洋装させ、外国人客を誘致する揚屋が登場。外観が西洋風の建物で珍しい「角油屋」という遊郭などが建てられた。丸山遊廓では外国人客のために娼妓が洋装、西洋料理がでて寝室にはベッドがあることが全国的に知れ渡ったのだそうだ。
※2010年9月ナガジン!特集「ながさき花街丸山伝」参照

町の様子を見渡してみよう。今の長崎を形づくる都市整備に力が注がれたのが明治期。外国人居留地の存在から考えても、人口、人の流れの変化も大いに関係あったのだろう。市街地の中央に位置する重要な橋も明治初期に様変わりをみせる。
長崎の町の母なる川「中島川」の架かる木製の通称「大橋」が洪水で大破したため、日本で最初の鉄橋(鐵橋・くろがねばし)に架け替えられたのだ(中央橋)。設計はオランダ人技師ボーゲル。長崎製鉄所(後の三菱重工業長崎造船所)が建設し、頭取である本木昌造が監督施工した。明治元年、渡りはじめを行なったのは、後に長崎県知事となる長崎裁判所総督の沢宣嘉、参謀井上聞多(井上馨)だった。今も昔も重要なこの橋。当時は、通行人がかき鳴らす下駄の音がゴロンゴロンと鳴り響いたとか。

以降、出島〜築町に出島新橋、梅香崎〜新地に梅香崎橋、築町〜新地に新大橋、大浦バンドと浪平を結ぶ木橋の下り松(松ケ枝)橋が架設され、居留地内遊歩場と前面整備が完成する。


『長崎濱町川端電車通と鉄橋』
長崎大学附属図書館所蔵



『大浦海岸通り』
長崎大学附属図書館所蔵

※2002.3月 ナガジン!ミュージアム探検隊「三菱重工業株式会社 長崎造船所史料館」参照

※2009年3月 ナガジン!往来人物伝 「伊藤博文」参照
※ナガジン!長崎龍馬便りvol.18「龍馬と船1 薩摩と長州を結んだユニオン号」参照
※2009年9月 ナガジン!特集「幕末の勇者が歩いた道−グラバー・お慶・海舟・龍馬−」参照

そして、出島は江戸町側の出島橋のみでつながっていたが、出島新橋の架橋で初めて出島と築町が陸続きとなり、これで出島〜居留地間の湾岸道路が完成する。丸山の思案橋、思切橋、対岸への陸路を実現させた稲佐橋が架かったのも明治期だ。
また、明治の中頃には、出島オランダ商館と江戸町を結ぶ石橋がはずされ、中島川の流路変更工事に伴い出島の北岸が削られる。そして明治15年頃には、それまで、通称や俗称で呼ばれていた市中の100余りの橋名に正式な名前が付けられた。命名者は当時長崎区常置委員会の委員を務めていた漢学者の西道仙。橋柱に刻まれた橋名も道仙の書が使用された。明治中頃には、外国人の往来の様子が伺い知れる物証として、螢茶屋にあるアーチ式石橋一の瀬橋の橋銘に「ICHINOSEBASHI」と刻まれる。
『蛍茶屋と一の瀬橋』
長崎大学附属図書館所蔵
※2008年3月 ナガジン!特集「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」参照

鉄橋完成と同年に日本初の洋式近代的ドック小菅修船場(通称そろばんドック)も完成。ドックの設備はすべてイギリスから輸入したものだった。また、明治12年(1879)には、政府の支持を得て立神ドックが完成。西南戦争時ということもあって新船も建造するようになったためだ。
※2008年1月 ナガジン!特集「働きビトのプチ観光」参照
※2009年11月 ナガジン!特集「長崎の赤レンガ建造物」参照


『立神ドック』
長崎大学附属図書館所蔵
 

異国から伝わった
今は定番の諸文化

移住した外国人によって近代技術や、キリスト教の精神が次々に持ち込まれ、すっかり定着していく。幕末の文久元年 (1861)、 日本初の英字新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」が長崎で創刊。英国人A.W.ハンサードの手により発行されたこの新聞は、英字・邦字を問わず、日本の近代的新聞の第一号だ。紙面には、商人達に必要な情報がいっぱい。為替レートや銀行の利率、船の入港時刻や長崎のローカルネタなど、タイムリーかつ重要な情報を提供する紙面に毎朝目を通すのが貿易商人たちの日課となった。明治元年(1868)には日本最初の地方紙「崎陽雑報」創刊。本木昌造の長崎新聞局経営で、発行は致遠閣(佐賀藩)。 近代印刷による日本初のローカル新聞だ。本木昌造が長崎活版伝習所、新町活版所を開設したのも明治初年のこと。
※2010年2月 ナガジン!特集「長崎の印刷物」参照

明治4年(1871年)、デンマークの大北電信会社は、長崎・上海間に海底電信線を敷設し、日本初の国際電信業務を開始。同年に長崎・ウラジオストック間の通信も開始した。ちなみに、私設電話を初めて引いたのはトーマス・グラバー。明治の中頃、高島炭坑で洋式採炭法の採炭を始めた際、南山手の居宅から高島の寓居に電話線を架設した。明治4年、小島郷稲荷山に気象観測所を設け気象観測を始めたのはオランダ人、アントン・ヨハネス・ゲールツ。その後、電信回線が開通しているということで、こちらも日本ではじめての地方測候所「内務省理局長崎測候所」(現長崎海洋気象台の前身)が十善寺郷に設置される。
私学教育も、異国文化の冴えたるものだ。現存する活水学院、海星学園など、キリスト教の精神に乗っ取った教育が、明治期、長崎で花開いていく。
『長崎市立海星学校』
長崎大学附属図書館所蔵
町を形成する建造物の存在も大きい。
船に乗ってやって来る渡航者は増え続け、彼らに部屋と食事を提供する日本最初の洋式ホテル『コマーシャル・ハウス』を皮切りに、続々と撞球場や理容サルーン、ボウリング場なども付設した外国人向けのホテルが開業していった。現存する旧香港上海銀行横、海岸沿いの一等地には、3階建ての威風堂々とした『ナガサキ・ホテル』が建ち、これが、居留地における本格的な煉瓦建築の幕開け的存在となった。同時期に建てられた建物には、今も往時の姿を留めているマリア園がある。
『長崎ホテル』
長崎大学附属図書館所蔵
※2009年5月 ナガジン!特集「長崎異人館ストーリー」参照

港外の伊王島灯台(日本初の鉄造六角形の第一等不動灯)の建設にきた英人ブラントからコンクリートの技法を習った大工の大渡伊勢吉は、それを応用して日本初のコンクリート造りの小曽根邸を建築する。また、居留地の一角であった梅香崎には、貿易商人レスナーによってユダヤ教会(シナゴーク)が建立される。煉瓦造り平屋建て色ガラス窓、異国情緒満点の建物だった。

そして、今も記憶に残る人が多いのではないだろうか。明治20年代、広馬場入口から銅座川までの本籠町(現銅座町)には10棟続きの煉瓦造平屋建、切妻造の倉庫が貿易商兼倉庫業本田平十によって建てられていた。通称・十軒蔵。徐々に数を減らし、昭和50年代についに解体されてしまったが、あの倉庫群も明治期の建物だったのだ。
 

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