市街地のちょうど中心部に位置する長崎のランドマーク!稲佐山。旅から帰った時にこの山を眺めると、なぜだかホッとする。どこを歩いていても、車を走らせていても、この山の姿を見つければ自分がいる方角がわかる。いつの頃からか稲佐山は市民にとってそんな愛着ある存在となっている。今回は“稲佐山のすべて”と題し、これまで知らなったこの山の魅力を紹介。これまで以上に、稲佐山に親しみが出てくること間違いなし!


ズバリ!今回のテーマは

「これまで知らなかった“稲佐山”を調査」 なのだ




山頂展望台から市街地を望む
333mの稲佐山。山頂の展望台からは、周囲の地形を360度にわたり望める。長崎(野母崎)半島や伊王島、高島、端島と、美しい海に浮かぶ島影、遠くは雲仙岳や大村湾を越えて多良岳まで、それはまさしく長崎の中心を感じる景観だ。そして、長崎港に入港してくるクルーズ客船、対岸に広がる外国人居留地跡、ビルが建ち並ぶ市街地。ここは海と山に囲まれた風光明媚な長崎の町の風景をあらためて実感させてくれる絶好の場所なのだ。
 

稲佐山は火山噴火で誕生した?

長崎市街地の地図を広げてみよう。地図上に見る稲佐山周辺の形は、なんだか左側を向いたライオンが雄叫びをあげているかのような姿をしている。海を取り囲むように広がるこの山は、いつの時代にどのようにしてできたのだろうか?
あまりに昔で気が遠くなる話だが、およそ百万年前、長崎には長崎火山と呼ばれる1500m以上の活火山がそびえたっていたといわれている。そして、この火山活動が終わり浸食され、この残丘が彦山や稲佐岳や三ツ山など長崎市周辺を取り囲む山となったのだそうだ。
なるほど、だから稲佐山には天然温泉の施設ができるのだ、と納得。しかし、こんな話を聞いて展望台から周囲を見渡すと、それが火山活動の痕跡だということがすんなり理解できる。いくつもの小高い山が四方八方に散らばる長崎の地形は、太古の昔の火山活動の賜物だったのだ。

地図に見る稲佐山
ライオンの雄叫びに見えない?
 

「稲佐」という地名の成り立ちは?

それでは、「稲佐」という名称の語源はどんなものだろう?
明治時代の長崎の歴史家・香月薫平氏の『長崎地名考』には、
「稲佐岳は長崎より海上六町ばかり隔てたるところの山岳なり。山上つねに煙雲軽くとび奇峻、雄秀にして北は神根山に連なり南は秋浦(飽の浦)を臨む。むかし武人稲佐氏、山の麓に居れり、その遺跡なお存す。山の半腹は幽深の地にして林木蒼茂せり……」とある。
ここからは、稲佐氏という武人の名が土地に根付いたと推測できる。

また、郷土史研究家の松竹秀雄著『ながさき稲佐風土記』には、
「アメノトリフネノ神が『出雲の国の伊那佐の小浜に降りつきて』に名高い『伊那佐』とおなじく、『イナ』が砂地、『サ』は接尾語でおって稲佐埼の下の磯が小砂丘をなす美しい砂浜であったことから、その付近一帯をイナサと称し、更に稲佐からその南にかけての地域も稲佐に含めて称したものである。」とある。
しかし、ネットでも、いろいろと稲佐の情報を得ているうちに、稲佐の語源についての面白い説を発見した。それは、カメラマンで教育機関の講師をなさっている竹村倉二氏の「いなさの謎」というものだ。彼の説によると朝鮮大陸の「百済」から、ある部族集団が一人の姫をつれて、長崎の地に流れついた…ことにはじまる、古代の韓国語が鍵を握っているという説。詳しくはHPを。
http://freephoto.artworks-inter.net/book/novel/inasa/

語源ひとつとっても広がる疑問、深まる興味。稲佐山のことにますます興味がでてきただろうか?
 

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【稲佐山の誕生と地名の成り立ち】

【稲佐の町と、そこに生きた人々/志賀の波止場】
【ロシアとの親密関係/稲佐のお栄さん!という人】
【稲佐の町のあんな話、こんな話】
【もしかして稲佐山も50周年記念?】


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