稲佐の町と、そこに生きた人々

「地元は稲佐!」といっている人々が指しているのは、「稲佐町」ではなく、「稲佐橋」を渡った稲佐山山麓から中腹にあたるエリア全般のことだろう。町名にすると稲佐町曙町光町弁天町旭町江の浦町平戸小屋町大鳥町丸尾町水の浦町大谷町、それに淵町辺りだろうか。
現在の稲佐橋は三代目で、初代の橋は、明治39年(1906)に架けられた長さ約75m、幅員約5.5mの市内最長の木造の橋だった。


現在の稲佐橋

この稲佐橋を渡った「地元は稲佐!」を名乗る人々が住むエリアには、稲佐小学校と朝日小学校、という2つの小学校がある。なかでも稲佐町の稲佐小学校は、明治15年(1882)に開校したとても歴史のある学校だ。

橋が架かるずっと以前の江戸時代、この辺りは肥前国彼杵郡のうち、浦上淵村稲佐郷、舟津郷、平戸小屋郷、水の浦郷と呼ばれ、幕府直轄領で長崎代官が支配下にあった。その際、庄屋職に就いたのは、豊後(現・大分県)を本拠とした一族・大友氏の旧臣志賀氏。当時長崎奉行で同族同郷の竹中重興(しげおき)によって浦上渕の庄屋に任命されたといわれている。慶長10年(1605)から明治維新に至るまで、志賀家が世襲した。

この志賀一族の痕跡は、今も稲佐エリアに残っている。稲佐岳の東斜面、曙町にひと際目をひく朱塗りの門がそびえる。慶長3年(1598)創建の終南山光明院悟真寺だ。この寺が所有する稲佐悟真寺国際墓地に彼ら一族は眠っている(浦上村渕庄屋志賀家墓地/市指定史跡)。
古くから稲佐の象徴的存在であり続けている悟真寺は、岩屋山神通寺の支院のあった場所ともいわれ、また、戦国時代の豪族・稲佐治部太輔氏の居館後ともいわれている。その頃の遺構として現存するものが、境内の「聖井戸」と呼ばれる古井戸だ。その後、かつては武士だった筑後善導寺の僧・聖誉(せいよ)が、キリスト教が台頭したことによって長崎の寺院が焼き払われるなど、仏教が廃絶していることを嘆き、慶長3年(1598)、長崎奉行・寺澤志摩守の許可を受け、この「終南山・悟真寺」を創建した。この寺は、キリシタン時代における仏教再興最初の寺だったのだ。おそらく志賀一族の菩提寺でもあったのだろう。


悟真寺・本堂
宗教や国境を越えた長崎の
歴史を 垣間見る寺、悟真寺
※2002.3月ナガジン!特集『長崎に眠る異国の人々』参照
※2005.7月ナガジン!特集『悟真寺〜中国人最初の菩薩寺』参照
※2006.12月ナガジン!特集『一度拝みたい!長崎の見逃せない仏像』参照

始祖 親成(ちかなり)、初代庄屋 親勝(ちかかつ)と共にこの地に眠る11代親憲(ちかのり)は、安政5年(1858)、「稲佐ロシア人休息地」開設に関与した人物で、また、その長男の親朋(ちかとも)は、その環境からかロシア語の通訳となり、幕末にはロシア留学を果たし、維新前後には露外交の通訳として活躍した。

稲佐橋から稲佐公園にかけての光町の坂道は、少し小高くなっているが、これはかつて、ここが「鵬ガ崎」と呼ばれる岬だったことの名残だという。この辺りには、当時の長崎の風流人であった蒲地子明の別荘があり、文政6年(1823)の頃、「鵬ガ崎焼」を開窯した。子明自作の詩歌を彫刻した雅趣に富んだ作品は、特に茶人に珍重されたが、嘉永5年(1852)閉窯。僅か30年間しか作陶しなかった「幻」の雅陶は、長崎歴史文化博物館に展示されているのでぜひご覧あれ。

また、稲佐は江戸時代、出島オランダ屋敷や唐人屋敷に住む外国人が食していた食用のブタやヤギが立山と共に飼われていた場所。そのため、稲佐橋から稲佐公園にかけては家畜の飼料となる稗が栽培されていた。そして、そのことからかつては稗田という地名だったという。今も「稗田橋」というバス停名でその名が残る。この稗田の浜には、亨保16年(1731)、鋳銅所が建てられ、棹銅が造られていた時代もあった。
 

歴史の大舞台「志賀の波止場」

現在の弁天町、旭大橋の稲佐側カーブの下辺りは、当時、船着き場だった。庄屋である志賀家の屋敷前にあたるところから「志賀の波止場」と呼ばれていたという。江戸時代中期に書かれた長崎名勝図会に「稲佐割石」がある。寛文5年(1665)、入港後間もないオランダ船の火災により大砲が暴発。砲弾が海岸の崖を直撃し砕け落ちた大岩が真二つに割れた。やがてこの二つの石は「割石」と呼ばれるようになり、長崎の名所の一つになったのだそうだ。明治30年に始まった港湾改良工事で撤去されたため現存はしていないのが、残念!

このオランダ船の暴発事件を受け、元禄3年(1690)、長崎奉行は砲弾と火薬を管理し出港までの間、保管することなり火薬庫「稲佐塩硝蔵」を割石の側に造った。明和2年(1765)にこれを廃止し、対岸の御船蔵内に保管するようになると、その跡地には、明和4年(1767)、鋳銭所が設けられた。安永2年(1773)に廃止されるまでの7年間に23万1千貫文の銅銭が造られる。この稲佐銭座で鋳造された「寛永通宝」の裏面にはマス型の上に「長」の字が刻まれてあるのが特徴だったとか。
※2005.9月ナガジン!特集『真昼の銅座巡遊記』参照

そして時代は流れても、この「志賀の波止場」は歴史の舞台として登場する。文政11年(1828)8月に襲った台風はシーボルトを乗せて出港する予定であったコルネリウス・ハウトマン号を座礁させ、この「志賀の波止場」に積み荷が散乱。国外持ち出し禁止の日本地図が発見されたのだ。世にいうシーボルト事件の舞台もこの地だった。その後も幕末から明治にかけて、志賀家は海運業を始め、この波止場を拠点とした。

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【稲佐山の誕生と地名の成り立ち】
【稲佐の町と、そこに生きた人々/志賀の波止場
【ロシアとの親密関係/稲佐のお栄さん!という人】
【稲佐の町のあんな話、こんな話】
【もしかして稲佐山も50周年記念?】