ポルトガル、オランダ、中国、ロシアetc……。元亀元年(1570)の開港以前から、長崎には多くの異国人が訪れた。そんな中、江戸時代に移り住んだ唐人達が菩提寺として参拝していたのが、稲佐山の中腹に佇む浄土宗の寺院、悟真寺だった。浄土宗の寺院でありながら、中国人墓地をはじめとする国際墓地を管理する悟真寺の歴史に迫ってみよう。


ズバリ!今回のテーマは

「異国の香り漂う寺院へ潜入!」なのだ


●文化財
唐人墓地祭場所石壇
(市指定史跡)

●JR長崎駅からのアクセス
長崎バス/バス停長崎駅前南口から稲佐行きに乗車し、悟真寺前で下車すぐ。
車/長崎駅前から約5分。 


キリシタン時代、仏教再興最初の寺院



7月上旬、久しぶりに悟真寺に訪れると、墓地の入口に、蓮の花が見事に咲いていた。以前から池はあったが、ここに蓮が植えられたのは3、4年前のことだとか。それにしてもお見事! 近所の人達もこの時期になると、蓮の池へ自然と足が向き、しばらく見入っては帰るという時間を楽しんでいるそうだ。

これまで、観光地としてはなかなかスポットが当たらなかった浄土宗の寺院・悟真寺。しかしここは、長崎市そのものの歴史と深い関わりを持つとても重要な寺院なのだ。場所は、明治維新前は長崎代官が支配する肥前国彼杵郡渕村稲佐郷、現在の曙町。長崎市のランドマーク的存在である皆さんご存知の稲佐山の中腹に位置している。かつて、1336年からの57年間続いた南北朝時代には稲佐氏の領地で、境内も稲佐氏の館跡だったといわれている。その頃の遺構として現存するものが、「聖井戸」と呼ばれる古井戸だ。
その後、かつては武士だった筑後善導寺の僧・聖誉(せいよ)が、キリスト教が台頭したことによって長崎の寺院が焼き払われるなど、仏教が廃絶していることを嘆き、慶長3年(1598)、長崎奉行・寺澤志摩守の許可を受け、この「終南山・悟真寺」を創建したのだ。
そう、この寺が長崎市の歴史と深い関わりがあるというのは、第一にキリシタン時代における仏教再興最初の寺だということだ。
さらに、港を望む一等地に広がる悟真寺の墓地は、稲佐悟真寺国際墓地と呼ばれている。長崎市内にある3ケ所の国際墓地の中で最も古い歴史を持ち、他の2ケ所が公有地で長崎市が管理しているのに対し、ここは浄土宗である悟真寺歴代住職によって守られてきたという世界的にも珍しい歴史を持っているのだ。これも昔から外国人を受け入れ異文化を取り入れてきた長崎ならではの特徴だろう。中国人墓地、オランダ人墓地、ロシア人墓地のほか、ポルトガル、アメリカ、イギリス、フランスなど長崎を往来した人々が縁あって異国である長崎の地に眠り続けている。

それにしてもなぜ、悟真寺は国際墓地を持つようになったのだろう?

実は悟真寺の創建に尽力したのが、唐人の商人、欧陽華宇(おうようかう)と張吉泉(ちょうきつせん)。つまりこの2人が檀徒第1号で、以後も檀徒は中国人ばかり。その墓地が大きく拡がっていったのだ。鎖国になると西欧人達は出島へ押し込められ、中国人達は市中に住むことが認められたが、自分達がキリシタンでないことを証明しなければならなくなった。そこで寛永年間に次々と造られたのが、いわゆる唐三カ寺の興福寺、福済寺、崇福寺。檀徒は悟真寺からそれぞれ出身地に沿った唐寺へと移ったが、幕府から『百間四方の地を唐人墓地とする』という朱印をもらっていたため、檀徒達は墓地を変えなかったのだそうだ。現在でも悟真寺における中国人墓地では新しい墓碑が増えていて、その数は230基にものぼる。
また、出島の西欧人が亡くなった時、キリシタンの西欧人は首に石をつけて海中に投ずる“水葬”だったのだが、歴代の出島商館長の陳情が実り陸上埋葬許可が下りたため、唐人墓地に続き、奉行所の口利きで悟真寺にオランダ人墓地ができた。以降、様々な経緯を経て世界各国の墓地が造られていったというわけだ。


さて、悟真寺の※伽藍だが、文化11年(1814)に再建された本堂は、原爆で焼けたため、現在の本堂は昭和34年(1959)に建立されたものだ。

原爆被災以前は本堂も異国情緒満点の寺院だったという。唯一、中国人達の菩提寺であった名残が見受けられるのが、中国風の山門と、中国人墓地の中国特有の寝墓。長い時間を経て長崎の中に息づいてきた中国文化がここに証明されている。

(※伽藍/僧侶達が住んで仏道を修業する、清浄、閑静な場所。後に寺院の建築物の称。)

 check check! ◆中国との強い関わりが感じられる山門

崇福寺の楼門にも似た形の赤い山門は、やはり中国風。これは、浄土宗の寺院でも、檀徒である中国人達の意向が反映されていたという証しだ。



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