ポルトガル、オランダ、中国、ロシアetc……。元亀元年(1570)の開港以前から、長崎には多くの異国人が訪れた。そんな中、江戸時代に移り住んだ唐人達が菩提寺として参拝していたのが、稲佐山の中腹に佇む浄土宗の寺院、悟真寺だった。浄土宗の寺院でありながら、中国人墓地をはじめとする国際墓地を管理する悟真寺の歴史に迫ってみよう。
それにしてもなぜ、悟真寺は国際墓地を持つようになったのだろう?
実は悟真寺の創建に尽力したのが、唐人の商人、欧陽華宇(おうようかう)と張吉泉(ちょうきつせん)。つまりこの2人が檀徒第1号で、以後も檀徒は中国人ばかり。その墓地が大きく拡がっていったのだ。鎖国になると西欧人達は出島へ押し込められ、中国人達は市中に住むことが認められたが、自分達がキリシタンでないことを証明しなければならなくなった。そこで寛永年間に次々と造られたのが、いわゆる唐三カ寺の興福寺、福済寺、崇福寺。檀徒は悟真寺からそれぞれ出身地に沿った唐寺へと移ったが、幕府から『百間四方の地を唐人墓地とする』という朱印をもらっていたため、檀徒達は墓地を変えなかったのだそうだ。現在でも悟真寺における中国人墓地では新しい墓碑が増えていて、その数は230基にものぼる。 また、出島の西欧人が亡くなった時、キリシタンの西欧人は首に石をつけて海中に投ずる“水葬”だったのだが、歴代の出島商館長の陳情が実り陸上埋葬許可が下りたため、唐人墓地に続き、奉行所の口利きで悟真寺にオランダ人墓地ができた。以降、様々な経緯を経て世界各国の墓地が造られていったというわけだ。
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