今も多くの異国人が眠る国際墓地

全域約2万平方メートルにも及ぶ稲佐悟真寺国際墓地は、中国人墓地を中心にオランダ、ポルトガル、フランス、イギリス、アメリカ、ドイツなどの各墓域に分かれている。

広い敷地を占め、日本最大といわれているのがロシア人墓地で、約1000体以上が埋葬されているという。


稲佐山に向かって煉瓦塀が続く坂段を上るとすぐに、両側に中国墓地が広がる。
稲佐悟真寺国際墓地の大半を占めるのが、この中国人(唐人)墓地なのだ。上るにつれ、見るからに新しいとわかる中国人の墓石を目にする。今も子孫が長崎に住んでいるのだろう。


はじめに造られたのはやはりこの中国人墓地だった。それが慶長7年(1602)のこと。次に出島和蘭商館のオランダ人のためオランダ人墓地、それからしばらく時が過ぎた安政5年(1858)にロシアから艦隊が来航した際に病死した船員を葬るためのロシア人墓地が造られた。



レンガ塀に囲まれたオランダ人墓地


寝墓の前後に板碑を立てた特徴的な
中国人墓地


ロシア正教の礼拝堂(イコン)が建つロシア人墓地


オランダ人墓地の中に日本にあるヨーロッパ人の墓の中でも最も古い墓がある。東インド会社の出島オランダ商館長だったヘンドリック・デュルコープの墓だ。商館長としてインドネシアから出島に派遣されてくる途中に船上で亡くなりここに葬られたのだ。彼の葬儀は盛大に執り行われ、オランダ人の同胞たちは喪服で正装して参列、様々な模様の旗が風に翻っていたらしい。埋葬後、墓前で仏教の僧侶が経を唱えたが、悟真寺ではその後これが恒例となり今日に至っているそうだ。

また、中国人墓地の上段の奥にグスタフ・ウィルケンスというドイツ系アメリカ人の商人の墓碑がある。彼は開港後の安政6年(1859)に長崎へ来航し、外国貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者となり、明治2年(1869)1月、37歳の若さで亡くなったのだ。彼は死ぬ時、自分の財産の全てを丸山遊女・玉菊に与えた。すると玉菊はその財産の大半を使ってけた外れに大きな墓碑を建てたのだそうだ。側面に「津国屋内 玉きく」の文字を発見。玉菊は彼を深く愛していたため、残りのお金も貧窮している人たちに与え、玉菊は最後は乞食のように暮らしたという。灯籠の台に丸い舵取りを象った中に十字架を入れた立派な墓碑が、現在もウィルケンスと玉菊との遠い恋物語を語っている。





墓地を観光するというのは、適切ではないかもしれない。容易に足を踏み入れ、静かに眠る人々の邪魔をするのも避けたい。しかし、復元されつつある鎖国時代の出島……中国人の居留地だった唐人屋敷跡……開港後外国人居留地として賑わった南山手、東山手の洋館、石畳、高台から望む長崎港……これらと同じように、母国を離れてこの長崎で眠る人々の「生」の姿を思い描きながら歩いてみると、異国人と長崎の人々が生き生きと共存していた時代が少しばかり肌で感じられてくる。
ロシア墓地と中国墓地に関しては、現在まで言語の壁などからどんな人々が眠っているのか、故人の姓名を調べるまでに至っていないそうだが、きっと、それぞれにドラマティックな人生があったのだろう。墓碑には、その手掛かりとなる墓標や短いメッセージも刻まれている。



※詳しくはナガジン2002.3月「稲佐悟真寺国際墓地」参照

 check check! ◆墓碑の横にある土神様っていったい何?

長崎市内の墓地を訪れると、墓石の横に土神様と刻まれた石碑がある。これは、江戸時代中期、書家の程赤城が広めた道教の教えによるもの。つまり、神様に借りている土地にお墓を建てているから、土の神様を祀ってあるのだ。館内の唐人屋敷跡にある土神堂と同じ意味を持つこの土神様を、長崎の人は“つちがみさま”と呼び、墓より先に手を合わせる風習が残っている。


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