オランダ人墓地の中に日本にあるヨーロッパ人の墓の中でも最も古い墓がある。東インド会社の出島オランダ商館長だったヘンドリック・デュルコープの墓だ。商館長としてインドネシアから出島に派遣されてくる途中に船上で亡くなりここに葬られたのだ。彼の葬儀は盛大に執り行われ、オランダ人の同胞たちは喪服で正装して参列、様々な模様の旗が風に翻っていたらしい。埋葬後、墓前で仏教の僧侶が経を唱えたが、悟真寺ではその後これが恒例となり今日に至っているそうだ。
また、中国人墓地の上段の奥にグスタフ・ウィルケンスというドイツ系アメリカ人の商人の墓碑がある。彼は開港後の安政6年(1859)に長崎へ来航し、外国貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者となり、明治2年(1869)1月、37歳の若さで亡くなったのだ。彼は死ぬ時、自分の財産の全てを丸山遊女・玉菊に与えた。すると玉菊はその財産の大半を使ってけた外れに大きな墓碑を建てたのだそうだ。側面に「津国屋内 玉きく」の文字を発見。玉菊は彼を深く愛していたため、残りのお金も貧窮している人たちに与え、玉菊は最後は乞食のように暮らしたという。灯籠の台に丸い舵取りを象った中に十字架を入れた立派な墓碑が、現在もウィルケンスと玉菊との遠い恋物語を語っている。 |