長崎一の歓楽街として名高い“思案橋”。しかし、長崎の人が飲みに行く時の合言葉は「ちょっと今日、銅座に出てみる?」。実は思案橋に隣接する町・銅座の名前を口にすることが多い。さて、そんな長崎の夜の顔・銅座の真昼の表情とはいかなるものか? 時代を感じさせるものなどに目を向け、巡り巡ってみよう。


ズバリ!今回のテーマは

「知られざる銅座の一面を捜せ!」なのだ


●JR長崎駅からのアクセス
路面電車/長崎駅前電停から正覚寺行きに乗車し、築町電停または観光通電停で下車すぐ。
長崎バス/バス停長崎駅前東口バス停から早坂・風頭方面行き、または長崎駅前南口バス停から田上・茂木方面行きに乗車し、浜町バス停で下車すぐ。
車/長崎駅前から約6分。

●銅座巡遊詳細マップはこちら


銅座は江戸時代まで町じゃなかった? 
MAP1

さて、銅座町は明治元年7月、銅座跡の一区が東銅座、西銅座町と2つの町名で産声をあげ、同年10月に銅座町と改称し今に至っている町。それまでは、ここは町ではなくただの“銅座”だったのだ。

説明しよう! 明暦、万治の頃に入港したオランダ人は、輸入品の代わりに銭を受けとりたいと願い出ていた。また、当時台湾の鄭成功が、中国本土を窺っており、台湾と本土間は交通が途絶したため、台湾には通貨が欠乏して困っていた。そこで長崎に入港する唐船は、常に多くの鋳銭を買い入れて、積戻っていたという。このようなオランダ人や唐人の希望から、貿易商の多かった江戸町の町年寄が江戸で鋳造する計画を立てたが、時の長崎奉行はそれよりも運搬の危険もなく、事務上も便利な長崎で鋳銭事務をとることになった。
その結果、万治3年から長崎市内の各所に銭座が創設された。今も銭座の地名が残る銭座の馬込銭座にはじまり、新大工の中島銭座、稲佐には稲佐銭座に稗田銭座、そして、亨保10年(1725)、浜町の裏手の築地(現在の銅座)に築地銭座(鋳銅所)が設けられ、貿易品の代わりの品として相銅を鋳造していたが、中国に銅鉱が開発されて需要が減少したために元文3年に14年の歴史に幕を閉じた。それから3年後、築地銭座跡に銅座銭座が創設され、銅座銭(鉄銭寛永通宝)の鋳造を開始し、一厘銭などが造られていたのだとか。つまり、MAPで示す1のエリアは、町ではなく“銅座”だった訳なのだ。
鋳造所が設けられた場所には、現在銅座跡の碑が建てられている。

それでは、現在の銅座町の端、築町電停前の電車通りに面した銅座町1番地。
十八銀行本店から歩いてみよう。(※銅座町はかつての“銅座”を含め拡大されているので注意!)


対馬藩蔵屋敷跡(俵物役所)
MAP2

ここは、かつて対馬藩蔵屋敷があった場所であると共に、唐貿易における主要輸出品だった俵物と呼ばれた煎ナマコ、干アワビ、フカヒレ、昆布などを取扱った俵物役所が置かれていた場所。当時、海産物加工品を俵に詰めて輸出していたので“俵物”と呼んだのだ。今もこれに由来して県産品ブランドを“長崎俵物”の名称で販売しているのでチェックしてみよう。
銀行横には銅座川が流れている。そこに架かっているのは“オランダ橋”。出島(和蘭商館跡)が目の前だということにちなみ命名されたのだろう。橋の片隅に“福”と刻まれた福々しい南蛮恵比須様の石像を見つけた!




十八銀行本店から電車通りを中央橋方面へ向かった角に注目。現在は高いビルが建っている。

土佐商会跡
 MAP3

かつては西浜町だったこの場所には、幕末、土佐屋敷が置かれていた。土佐商会もここにあったため、坂本龍馬や中江兆民達も出入りしていたのだという。この界隈を龍馬が袴姿にブーツで闊歩する光景が目に浮かぶ?

映画館が入ったステラビルを右に折れ、新地中華街の方面へ向かう。茂木の行商のおばさん達がズラッと並ぶその左奥に注目だ!


薩摩藩屋敷跡
 MAP4

現在、三菱信託銀行があるこの地は、江戸時代長い期間に渡って薩摩藩屋敷があった。幕末期には、松方正義などの志士達の活躍の場だったのだ。
建物の奥を覗き込むと、大木を発見! もしかしてもしかすると、往時からのものかも?
新地中華街へ向かう橋の下を流れているのも銅座川。華やかな欄干の橋はその名も“新地橋”だ。

銅座橋 MAP5

橋前のコンビニを左へ曲がると銅座川が姿を現す。この橋が銅座橋。寛保元年(1751)に土橋から石橋に改められたそうだ。現在では数多くの車が行き交う道路的印象が強い。



この橋から観光通り電停方面、川沿いの一体が銅座跡だ。

銅座釜屋 MAP6


さて、銅座銭(鉄銭寛永通宝)を鋳造していた銅座の中に熔鉄を製造する熔鉱炉の釜が設置されていた。その場所が現在も現存する銅座橋の向かい角から西方の弦月形の小路、かつて“銅座釜屋”と呼ばれていた場所だ。今はスナックや居酒屋などが軒を連ねる繁華街。
また江戸時代、この近くに人字形の通りがあって、シバヤンジと呼ばれていたのだそうだ。この聞き慣れない地名は、もちろん俗称。当時この辺りには芝居小屋が点在していた。 つまり“シバヤンジ”とは“芝居小屋の地”あるいは“芝居小屋へ行く路”が訛ったものだといわれている。昔の人は芝居をシバヤといっていたんだって!



 close up! ◆銅座の殿様・永見徳太郎 (MAP11永見家宅跡)

銅座町ゆかりの人物として、銅座の殿様と呼ばれていた永見徳太郎氏の存在も忘れてはいけないだろう。長崎にはかつて傘鉾町人という呼び名があった。これは、諏訪神社の秋の大祭である長崎くんちにおける各町の奉納踊りの先頭をつとめる町印である傘鉾に関する諸経費を一手に負担する旧家の富民に対する尊称。永見家は貿易商、諸藩への大名貸し、大地主として巨万の富を築いた、まさしく銅座の殿様だった。この永見家の6代目、徳太郎は年少の頃から永見夏汀の雅号で写真や絵画に親しみ、数々の作品を世に出した文化人だった。その上、竹久夢二や芥川龍之介、菊池寛などをはじめとした数多くの大正時代の文人墨客と交流を持ち、彼らが長崎を訪れた際には必ず永見家を訪問している。永見氏が当時の文化人と文通した書簡集4冊が長崎市立博物館に収蔵されているし、長崎県美術館には徳太郎の油絵4点が収蔵されている。機会があれば永見徳太郎の足跡に触れてみよう。
※永見邸跡はMAPで示されているあたりにありましたが、現在は区画整備され地番も変わっており、表示などは一切残っていませんのでご注意ください。

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