半世紀に渡るロシアとの親密関係

明治以降は、三菱重工業(株)長崎造船所の発展と共に住宅地として栄えていった稲佐エリアだが、一方、冬期の長崎港はウラジオストックを母港とするロシア極東艦隊の越冬地となっていて、稲佐に多くのロシア兵が上陸するようになった。それは、17世紀半ば、幕府は正式な交易相手をオランダに限定し、近隣のロシアの上陸は長く拒んできたが、嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチン来航の際、初めて上陸を許された。それでもまだ、できることなら彼らを長崎の中心地に迎え入れたくはなかった日本側は、港を隔てた漁村の稲佐を上陸地に指定。はじめは寺院などが臨時の宿泊所となっていたが、しだいに受け入れ場所が増え、極東に不凍港を求めるロシア艦隊の「稲佐ロシア人休息地」、通称「ロシアマタロス休憩所」となった。乗組員は稲佐で休息をとり、艦隊は物資を補給。稲佐悟真寺国際墓地の南側には、ロシア兵の射的場もでき、これは明治36年頃まで続いた。

また、万延元年(1860)に弁天町の上部から、曙町の稲佐岳登山道路入口という碑がある付近に置かれた「稲佐遊郭」も、当初ロシア艦隊の乗組員向けにつくられたものだった。安政4年(1857)に長崎入りしたオランダ海軍医ポンペは公娼制度の廃止と検梅制度を提案したが、幕府が拒否。万延元年(1860)に来日したロシア海軍提督ピリレフの要請により、稲佐遊郭において日本で初めて検梅が行われた。昭和33年(1958)の売春防止法施行まで続いた稲佐遊郭は、大正14年(1925)当時、貸座敷は19軒、娼妓の数は154名にものぼったそうだ。



稲佐岳登山道路入口

※2008.12月ナガジン!特集『西洋の風が吹く-長崎の医学史を支えた人物』参照
明治前半の稲佐では、小さな子どもさえ片言のロシア語を話すほどで、ロシア文字の看板を掲げたロシア人向けの店が珍しくなかったという。その一軒が、諸岡マツの経営するロシア人相手のホテル・レストランの料亭「ボルガ」。建てられた場所は、「志賀の波止場」だ。

諸岡マツの料亭「ボルガ」
<長崎大学附属図書館所蔵>
 

稲佐のお栄さん!という人

長崎の女傑の一人に挙げられる「稲佐のお栄さん」誕生のきっかけが、この「ボルガ」。明治13年(1880)のある日、マツのところに、天草生まれの20歳の娘が訪ねてきた。12歳の時、両親を相次いで失い、遠縁を頼って茂木の旅館で働いていたというその娘の名こそ、道永エイ(お栄)。お栄はマツに近くの「ロシア将校集会所」を紹介され、住み込み家政婦として働くことになる。 お栄はここでロシア語を修得。ロシア語が話せ、色白の美人で社交上手な彼女は将校達の人気者となり、その名は本国ロシアまで聞こえるようになった。21歳の時、ロシア艦隊戦艦「バルト号」の艦長に気に入られ、船長付のボーイとしてウラジオストックに渡り、ロシアで社交界の花形となるが、10年後に帰国。再びマツの片腕となって「ボルガ」で働くようになる。

明治24年(1891)、ロシア皇太子ニコラス二世(のちの皇帝)がギリシア親王ジョージとともに極東訪問の途中、艦隊を率いて8日間、長崎に立ち寄った。22歳の若い皇太子はお忍びで上陸し、上野彦馬に写真を撮らせたり、街角で出会った少女にかんざしを買ってやったりと、愉快な数日を過ごしたというが、その間、お栄は県当局の意を受けて、丸山芸者を呼んでの宴会などを設け、皇太子らを厚くもてなしたという。

明治26年(1893)、お栄はロシア軍艦で上海に渡り、帰るとすぐに、入港する船が一望できる高台(現・旭町、旭橋近く)に敷地面積300坪のホテル「ヴェスナー」を竣工させる。“ヴェスナー”はロシア語で「春」の意味。極寒の地、ロシアの人々にとっては「希望」を意味する響きだった。客室20、ロビー、宴会場、遊技場と、当時の最新の設備を備えた「ヴェスナー」は、連日連夜、カルタ遊びや酒宴が繰り広げられ大いに賑わった。その後、健康を損ねたお栄は、「ヴェスナー」の経営は諸岡マツに任せ、明治33年(1900)、平戸小屋(現・大鳥町)の小高い丘の上にロシア高官だけを顧客とするホテルと住居を建て、順調な経営をしていたが、日露戦争が始まると「露探」「ラシャメン」「非国民」などと罵られ、家に投石されるなど迫害される日々が続く。


ホテル・ヴェスナーと桟橋
<長崎大学附属図書館所蔵>
明治38年(1905)、ロシアは降伏し、お栄は県当局から捕虜となったステッセル将軍の宿舎をとの申し入れを受け、延べ9408名のロシア軍捕虜を稲佐全域80軒で収容し世話をしている。戦争が終わった翌年、お栄は茂木に純洋館建ての「ビーチホテル」を開業。外国人観光客を誘致するなど経営手腕を発揮し、繁盛させたが、昭和2年(1927)5月、数え年68才で生涯を終えた。
※ナガジン!歌で巡るながさき『歌さるき・10 稲佐〜神の島』参照

現在ではその形跡がほとんど見られないだけに、ピンとこないが、嘉永6年(1853)7月以来、日露戦争までの半世紀の間、稲佐エリアは遠くロシアの地まで知れ渡るほどの「ロシア人休息地」として賑わいをみせた、ロシアととても深い関わりを持つ町だったのだ。


長崎出島とロシア人居留地
<長崎大学附属図書館所蔵>


お栄のホテルでくつろぐ軍人と女たち
<長崎大学附属図書館所蔵>

唯一、今もその時代を偲ばせるのが、稲佐悟真寺国際墓地にある病死した船員を葬るために造られたロシア人墓地。ロシア正教の白いチャペルと、独特の十字架が掲げられた多くの墓碑がロシアとの交流の歴史を物語っている。


稲佐悟真寺墓地
<長崎大学附属図書館所蔵>

■長崎大学附属図書館古写真データ・ベース
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/


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【稲佐山の誕生と地名の成り立ち】
【稲佐の町と、そこに生きた人々/志賀の波止場
【ロシアとの親密関係/稲佐のお栄さん!という人】
【稲佐の町のあんな話、こんな話】
【もしかして稲佐山も50周年記念?】