文・宮川密義


今回は長崎港の西岸、県庁などのある繁華街からは“対岸”に当たる「稲佐」から「神ノ島」あたりまでを“歌さるき(歩き)”してみましょう。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 稲佐山
  標高333メートルの稲佐山は頂上の展望台から長崎市街を一望できる最高の観賞ポイント。特に夜景は“1000万ドル”と激賞されるほど宝石を散りばめたようなパノラマが広がり、長崎の歌にも多く歌い込まれています。
(2) 稲佐悟真寺国際墓地
  長崎市内には稲佐、坂本、大浦の3つの国際墓地があります。稲佐悟真寺国際墓地は広大な墓域に唐人、ロシア人、オランダ人、その他の外国人の各墓地に区分され、それぞれの国の様式墓碑などが並んでいます。外国人墓地は長崎の歌にも長崎らしい素材として歌い込まれています。
(3) お栄さんの道
  明治時代、長崎に入港していたロシア東洋艦隊の将校たちから“稲佐のお栄さん”として親しまれていた道永栄(みちなが・えい)は美貌の上に明るく社交的な性格で人気を集め、国際親善に尽くした女傑とも評されています。大鳥町の烏岩神社に続く石段の上り口(丸尾公園=地図の(4)=から西へ約70メートルの所)に「お栄さんの道」碑があり、烏岩神社のすぐ下にはお栄さんの居宅跡もあります。
(5) 烏岩神社
  「お栄さんの道」の碑の前から烏岩神社の鳥居をくぐり、細い階段を約10分上り続け、赤い鳥居が見える所、人家が途切れる最後の平屋建てが“お栄さんの居宅跡”。その右上の公園には滑り台と鉄棒があり、眼下に長崎港が広がります。
さだまさし原作「解夏」のドラマ版「愛し君へ」の第1話で“俊介が最後に見た長崎の景色”として取り入れられ、ロケも行われました。
(6) 四郎ヶ島
  鎖国時代、海外との唯一の貿易港だった長崎では、港の周辺に10カ所前後の砲台(台場)が築かれ、佐賀藩と福岡藩が警備に当たっていました。その一つ、四郎ヶ島は長崎市神ノ島3丁目、長崎港口にあります。長崎バスの神ノ島終点で降り、神ノ島公園から約1キロ程度の所。現在は地続きになっており、休日には釣り人や家族連れの散策で賑わいます。歌では長崎民謡「ぶらぶら節」に歌われています。

【稲佐〜神ノ島周辺マップ】


*「稲佐」を取り入れた歌

長崎の歌には「稲佐」または「稲佐山」がよく登場します。「稲佐山から朝霧晴れて…」(昭和8年、長崎博覧会の歌)、「風もさやかな稲佐の山の…」(昭和22年、霧の長崎)、「岩屋 稲佐も坊主じゃおらぬ…」(昭和22年、長崎盆踊り)「お湯は雲仙 眺めは稲佐…」(昭和24年、新長崎音頭)、など、随所に稲佐山が顔をのぞかせています。
また、下の写真のように稲佐側から眺めた長崎の風景を歌ったものも数多くあります。


稲佐山中腹から見た昼間の長崎港と繁華街


稲佐山中腹から見た長崎港と繁華街の夜景


1.「長崎小唄」
(昭和9年=1934年、平山蘆江・作詞、中山晋平・作曲、藤山一郎・歌)


「船の煙で稲佐がかすむ…」外国船でにぎわう江戸時代の長崎港が歌われています。
長崎に来航した中国人たちは稲佐地区に多く居住。元和(1615〜1624)の初め頃に悟真寺を菩提寺とした広大な墓地が造られてからはいっそう緊密になりました。
この歌は、昭和9年に長崎市中の島埋め立て地と雲仙で開かれた長崎観光博覧会に因んだ歌の一つで、「長崎音頭」(小唄勝太郎・歌)と合わせてレコードが作られました。
作詞は長崎出身の作家・平山蘆江(ひらやま・ろこう)、曲は音頭のヒットメーカー・中山晋平、歌も当時人気の藤山一郎とあって、「長崎音頭」とともに市民に親しまれました。
なお、平山蘆江の作品「長崎音頭」(昭和9年、斎藤佳三・作曲、美ち奴・歌)の1番にも「日見に日が出りゃ 稲佐がかすむ/あれは港の船けむり 船けむり/ 来まっせ来まっせ 寄りまっせ/来まっせ来まっせ 寄りまっせ」と、「長崎小唄」に似た表現があります。


「稲佐お栄の道」の終点、烏谷神社前からの眺望
ドラマ「愛し君へ」第1話のロケも行われました


2.「ばってん長崎」
(昭和50年=1975、出島ひろし・作詞、細川潤一・作曲、江崎はる美・歌)


長崎を東西南北に分け、彦山の月と中島川、稲佐の夕映え、南山手のオランダ坂、浦上の天主堂…と長崎の名所を紹介しています。盆踊りとして人気を集めました。
2番が稲佐風景。稲佐の夕映えは福田浦と島々、さらに長崎の街をあかね色に染めます。ほかに稲佐の国際墓地、明治の女傑といわれた“稲佐のお栄”を偲んでいます。
「連絡船」は大正13年(1924)から昭和44年(1969)まで大波止〜旭町間を往復していた市営交通船のことです。


国際墓地のある悟真寺の赤門


3.「広島の空」
(平成5年=1993、さだまさし・作詞、作曲、歌)

----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- -----

----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- -----


稲佐山での平和コンサート(2004夏・長崎から)
=ナガサキ・ピースミュージアム提供=


さだまさしさんが広島原爆の日に、被爆地・長崎から平和を発信するイベントとして毎年8月6日に稲佐山で開いている無料の野外コンサート「夏・長崎から」のテーマ曲ともいえる歌です。
デビュー20年目に出たアルバム「逢ひみての」に収録された歌で、歌詞にはもちろん「稲佐山」が出ており、彼の強いメッセージが込められています。
ナガサキ・ピースミュージアムで行った「あなたが平和をイメージする曲は?」のアンケート・ランキングでは、第1位の「祈り」に次いで「広島の空」が第2位でした。
コンサートは今年(平成18年)の第20回が最後ということですが、稲佐山は“平和発信の山”として、人々の心に強く刻まれたことでしょう。


4.「長崎慕情」
(昭和46年=1971、林春生・作詞、ベンチャーズ・作曲、渚ゆう子・歌)



悟真寺国際墓地のロシア人墓地

この歌が出来た頃“外人墓地”と呼称していた国際墓地は稲佐悟真寺、大浦、坂本の3カ所ありますが、最も古いのが稲佐悟真寺国際墓地です。
大浦、坂本は長崎市が管理し、稲佐は悟真寺の歴代住職によって守られてきました。
「長崎慕情」で歌われる国際墓地は「稲佐」のようです。キャンペーンで長崎にやってきた渚ゆう子も稲佐国際墓地を訪れた後、西坂の二十六聖人殉教の地から港を眺め、長崎の雰囲気を吸収していましたが、期待したほどはヒットしませんでした。
当時エレキサウンドの大御所として人気を集めたベンチャーズが作曲した「ナガサキ・メモリーズ」に、「京都慕情」の林春生(はやし・はるお)が詞を付けました。
外国人墓地を取り入れた歌はほかに「雨の外人墓地」(昭和28年、芳枝あき子・作詞、吉田正・作曲、久慈あさみ・歌)、「長崎の外人墓地」(昭和47年、舛田竹一・作詞、久富宥三郎・作曲、愛原洋子・歌)、「雨の外人墓地」(昭和56年、前田利茂・作詞、橋本一郎・作曲、三島日出男・歌)などがあります。


「長崎慕情」のレコード表紙


「長崎の外人墓地」の表紙


5.「長崎恋姿」
(昭和48年=1973、石本美由起・作詞、和田香苗・作曲、島倉千代子・歌)


「歴史上の人物を歌う」でも紹介しましたが、この歌は明治時代、稲佐のクラブで働き、ロシア将校らに人気を集めた“稲佐のお栄”をモチーフにしています。
明治初期、長崎港は政府指定のロシア極東艦隊停泊港として、多くのロシア人でにぎわいました。天草生まれの“稲佐のお栄”は本名・道永栄。ロシア語を身につけ、生来の美しさも手伝って、めきめき頭角を現しました。
その評判を聞きつけたロシアのニコライ皇太子がお忍びで来崎した折も、宴会を立派に仕切り、名を挙げました。
ホテル経営にも乗り出し、ロシア将校や華族など要人との交流も重ね、“ロシア海軍の日本の母”と呼ばれる一方、嫉妬と好奇の目にさらされ続けたともいわれます。
この歌は“稲佐のお栄”の人には言えない哀しみをしみじみと歌っています。作詞家石本美由起(いしもと・みゆき)が、長崎へのご恩返しとして作った「あじさい旅情」(島倉千代子・歌)のレコードB面で発表しました。

“稲佐お栄”こと 道永栄


「お栄さんの道」の登り口
左は案内の石碑


6.「ぶらぶら節」

長崎を代表する民謡「ぶらぶら節」は30節を超える古い歌詞が残っていますが、昭和6年(1317)にレコードに吹き込んだ丸山の芸妓・愛八(あいはち)の「ぶらぶら節」は冒頭から「四郎ヶ島(しろうがしま)」を歌っています。
「四郎ヶ島」は神ノ島町の先端にあり、現在は地続きになっていますが、江戸時代に台場(砲台)が築かれ、「城ヶ島(しろがしま)」と呼ばれるほどの城塞の島で、“肥前さん”の佐賀・鍋島藩と福岡・黒田藩が1年交代で警備に当たっていました。
嘉永6年(1854)、ロシアの使節プチャーチンが開港を求めて長崎にやってきました。歌の2番は、幕府との交渉は長引き、緊張する長崎側をよそに長崎港をのんびり見物する俄羅斯(おろしゃ=ロシア)水兵の様子を歌っているようです。
嘉永7年(安政元年)1月8日、ロシア側は他日もう一度来航することを告げて長崎を去ります。歌詞は前後していますが、1番で、ロシアの軍艦が立ち去り、ひと安心の奉行所役人や市民がお正月気分に浸っている様子を歌っているわけです。
3番の「大筒、小筒」は大砲と鉄砲。「すっぽんぽん」は入港する「異船」(外国船)が鳴らす礼砲の音を表現しています。

「ぶらぶら節」に歌われた四郎ヶ島

【もどる】