復元された「本木活字」

異国の風物を即座に伝え、大いに喜ばれた人気の長崎土産「長崎版画」。本木昌造による活字製造と活版印刷。神父らが布教に用いた版画や雑誌。開国後に発行された居留地の外国人のための英字新聞!長崎の出来事や風景、教えなどを記した数々の印刷物の歴史に迫る。


ズバリ!今回のテーマは
「印刷文化も長崎から」なのだ




印刷文化以前の本といえば…

江戸時代以前、古文書や文学、学業の手本となる解説書などは、すべて書写され広まった。日本最古の歴史書『古事記』は、系統にもよるが南北朝時代から室町時代初期にかけて、奈良時代に成立した『日本書紀』も鎌倉時代以降の写本で、平安時代中期に書かれた紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』も鎌倉時代初期に書写され広まっていった文学だ。
一方、時代を下って長崎の地に注目すれば、幕末期に最も使われた辞書『ドゥーフ・ハルマ』がある。これは、通称『長崎ハルマ』、『道富ハルマ』ともいい、18年余りも日本に滞在した出島オランダ商館長、ヘンドリック・ドゥーフが江戸時代後期に編纂した蘭和辞典。当初は私的に作成していたものだったが、通詞の語学力UPを目的とした幕府からの要請を受け、吉雄権之助ら長崎のオランダ通詞が総力を挙げ文化13年(1816)から本格的な編纂を開始。翌年、ドゥーフはオランダへ帰国したが、それまでに「A〜T」までの作業を終えていた。残りの「U」以降は通詞達が引き継ぎ、天保4年(1833)に完成されている。収録単語はなんと約50,000語。全58巻、総頁数が3,000を越える大作だ。『ドゥーフ・ハルマ』の複製は印刷を用いず、写本のみで行われたため出版数は33部前後と極めて少なく貴重となり、大変高価だったと推測されている。 蘭学修行を志した25歳の勝海舟は、貧窮にもめげず赤城玄意という蘭医からこの『ドゥーフ・ハルマ』を年10両(約120〜130万円に相当)で借り受け、滲まないインクや鳥の羽根を削ったペンを自作しながら1年がかりで写本2部を製作したという逸話も残っている。



『ドゥーフ・ハルマ』/長崎歴史文化博物館蔵

しかし、写本というのは当然数に限りがでてくるし、誤写、付け加えなども出てくる。特定の人に向けた伝達手段の「手紙」と違って、多くの人に伝えることを目的とした「書写」には、正確さとその数が要求された。そこで「書写」にうってかわったのが、「印刷」。そういうふうに考えてみると「印刷」という文化が現代の世界文明を創りだしたといっても言い過ぎではないのかもしれない。つまり「印刷文化」は、近年、インターネットが普及するまでは大勢の人に一斉にスピードを持って伝達する最大のツールだったわけだ。そして、印刷物そのものはとても奥深く、膨大な情報量を瞬時に発信できるインターネットとは違う役割と価値で、今なおその独特の魅力を持ち合わせている。

仏教の修行の一環である「写経」。現在、一般の観光客などでも「写経」を体験できる寺院もあり、経験したという方も多いと思うが、中国の北宋代(960年〜1127年)以降の日本では、中国から伝わった仏教の影響で、仏典の木版印刷が用いられるようになった。そして、印刷と同様に、木版画も普及していく。木版画も中国に生まれ、日本へは朝鮮半島経由または直接伝わったといわれるが、日本の伝統的木版画は西洋の版画とも中国の版画とも違い、その技法は江戸時代の日本人が工夫して確立していった。
 

江戸時代に人気を博した「長崎土産」

江戸時代の木版画といえば、「浮世絵」。写楽、北斎、歌麿などなど、広く世界に影響を与えたこの「浮世絵」も木版画の一種で、色ごとに版を使う多版多色版画というものだ。そして、この時代、長崎にも江戸から伝わった木版画の技法で表現した「長崎版画」があった。

「長崎絵」とも呼ばれるこの版画は、18世紀中頃からスタート。天保年間(1830〜44)頃から色摺りとなり、明治まで続いた。描かれたものは、中国人やオランダ人にはじまり、舶来品など異国的な題材が多くを占め、長崎を往来する人々の間で、異国の風物を知ることのできる「長崎土産」として大いに喜ばれた。作者の多くは不明だが、中国やオランダに関する知識の豊富さから、絵師だけでなく唐絵目利(からえめきき)と呼ばれる輸入絵画を鑑定し、模写する役職の地役人が多かったのではないかと推測されている。ゆえに、この時代の長崎には数多くの版元があった。多くを手掛けたのは、文錦堂・大和屋で、他に富島屋・梅香堂・耕寿堂という版元が各地に点在していた。

『長崎八景・大浦落雁』
長崎歴史文化博物館蔵

※2008.3月 ナガジン!特集「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」参照

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