江戸時代、天領 長崎に置かれた長崎奉行所には、124代に及ぶ長崎奉行の仕事ぶりを示す145冊の「犯科帳」が残された。約200年間にわたる長崎奉行の判決の記録から見えてくるのは、当時の長崎の町で起きた犯罪と庶民の暮らしぶり。


ズバリ!今回のテーマは
「長崎の町を見つめてきた役人達の仕事と、その目線に着目!」なのだ



 
江戸時代、長崎の町が最も活気づくのは、初夏。オランダ船との貿易の季節だ。その季節の到来は、長崎地役人「遠見番」が知らせる『白帆注進』にはじまる。野母村(現野母町)の権現山にあった遠見番所から「白帆」つまり、「オランダ船が見えたぞ!」という報告が伝わると、長崎の町は歓喜の渦に包まれ、貿易の準備が慌ただしくなるのだ。当時、長崎が日本の先端をゆく地であったのは唐蘭二国を相手とする日本唯一の貿易港であったから。長崎の町は、海外貿易によって栄え、それを維持、経営していくために町の仕組みが整えられていった。
寛永15年に幕府が設けた
権現山の遠見番所跡

平成18年(2006)、長崎県が所有する「長崎奉行所関係資料」1242点が国指定重要文化財の指定を受けた。その際の指定範囲は“長崎奉行所に保管されていた文書、絵図類で、来歴が明白な資料に限る”というものだった。実は各地の奉行所に比べ長崎奉行所の記録が数多く残っているのには理由がある。幕末、最後の長崎奉行であった河津伊豆守がそれらの文書をそのままにして外国船で長崎を引き上げたため、明治維新の動乱の中、長崎では混乱なく文書の引き継ぎもスムーズに行なわれたからだ。長崎奉行所の文書は、長崎会議所、長崎裁判所、長崎府、長崎県へと伝来し、大正から昭和初期にかけては、長崎県から県立長崎図書館へ移管。多くの人々が関わり保存に努めた。この中にはもちろん「犯科帳」も含まれていた。

※長崎奉行関係資料(文化遺産オンライン)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=136024
 

「犯科帳」は長崎独自のもの

さて、私たちが「犯科帳」と聞いてピン!とくるのは、やはり池波正太郎著の『鬼平犯科帳』の存在があってこそ。しかし、本来「犯科帳」とは、江戸時代の長崎奉行所の判決記録であり、寛文6年(1666)〜慶応3年(1867)の200年間に及び145冊にまとめられた、長崎の町で起きた事件記録を指している。つまり、「犯科帳」そのものは長崎独自のものなのである。この「犯科帳」に記された事柄からは、当時の長崎の町の様子、仕組み、町民の暮らし、風俗などがあぶり出されるようである。
 

長崎を護った人々1--長崎奉行

江戸幕府直轄の御料地(天領)であった長崎には奉行所が設けられた。この時代、長崎奉行は、外国貿易や長崎の司法と行政を統括する最高の役職で、文禄元年(1592)に設置されてから慶応4年(1868)まで、実に124代123人に及ぶ長崎奉行が誕生した。初期は一人制で、長崎に常に常駐はせず、ポルトガル船の貿易時期にだけ駐在し、主に宣教師やキリシタンの摘発と処罰に尽力。寛永10年(1633)からは二人制に。また、寛永14年(1637)に島原の乱が起きるとその翌年から1年を通じて常駐することとなり、一人は江戸詰(在府)、一人は長崎詰(在勤)の一年交代制となった(以後変動あるが、正徳4年(1714)以降は二人制で定着)。
歴代の長崎奉行を解説
(長崎歴史文化博物館展示)


第67代長崎奉行 土屋駿河守の墓
(春徳寺)




第82代長崎奉行 松平図書頭の墓
(大音寺)
※2006年.9月ナガジン!特集「長崎…時代を駆け抜けた人物の墓」参照
   

長崎奉行の格式は、明和4年(1767)以降、公的な役高1000石、在任中役料4402 俵だったが、実は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きい。つまり、輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で、関税免除で購入する特権が認められていたため、それを京や大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得る。さらには舶載品を扱う長崎町人、貿易商人、地役人達から、陰暦八月一日の祝日の進物として「八朔銀」と呼ばれる献金(年72貫余)や、唐人・オランダ人からの贈物、諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。その格式は、俗に10万石の大名並みだ。


※2005年.10月ナガジン!特集 長崎歴史文化博物館・第一章「甦った長崎奉行所立山役所」参照


荷改めの際、幕府への献上品も納められ、
奉行も気に入ったものを納めていた
(長崎歴史文化博物館展示)
 

ある長崎奉行の着任から実務まで

さて、文化9年(1812)長崎奉行に着任したのは、84代長崎奉行 遠山左衛門尉景晋。ご存知!江戸町奉行の遠山金四郎の父上様である。500石取りの旗本としては大抜擢。幼い頃より学問に秀でた勉強家だった景晋は、それまでも度々要所へ派遣される有能な役人だったのだ。遠山景晋自身が記した役務日記『長崎奉行遠山景晋日記』には、彼の仕事ぶりとともに、長崎奉行の職務を伺い知ることができる。


景晋が安豊稲荷神社(興善町)に寄進した手水鉢


側面には「遠山氏」と刻まれている

9月6日に長崎に到着した景晋は、西役所(現在の長崎県庁)において長崎在勤の奉行土屋紀伊守との引き継ぎを行ない、25日に立山役所(現在の長崎歴史文化博物館)に移っている。その間、すでに18日からは「御用」、21日から「白州」業務がはじまっている。この9月から10月にかけては合計17日、白州に出ているが、12月までは12〜13日、翌正月から6月までは月に6日と定められた「御用日」と重なり、5〜7日になっている。また、オランダ船が入港した6月末から7月にかけては、ほとんど白州は行なわれていなかった。
※ 御用…捕り方が犯罪人を捕らえること。
※ 白州…奉行所や代官所に設けられた法廷のこと。
       被疑者が座る庭に砂利が敷いてあり、その砂利の白さから白州と呼ばれた。


 

【犯科帳の世界1/最も多い罪状は「抜け荷」】

鎖国時代、唯一の貿易港だっただけに、「犯科帳」にはそれに関連する犯罪も多い。長崎奉行にとって「抜け荷(密貿易)」の取締りも大切な仕事のひとつだった。寛文6年(1666)〜慶応3年(1867)までの判決記録の中には、8000以上の事件が記されているが、そのうち、断トツトップが密貿易に関するものであり、「犯科帳」=密貿易史ともいえる。ひと口に抜け荷といっても規模も手口も大小様々。大規模なものは、博多商人 伊藤小左衛門などが、博多や長崎の商人から多額の資金を集め、対馬を拠点に朝鮮を相手に武器を輸出し、朝鮮人参を買い入れたりした一件。また、長崎代官 末次平蔵の番頭 陰山九太夫がカンボジヤまで出掛けて行なった一件など。その次は、貿易を済ませ帰帆する船を五島沖や平戸沖で待ち伏せるというもの。売れ残りを安く手に入れるのだ。最も小規模なものは、長崎港内外での取引。停泊中の船からは荷物は全て陸揚げされ、唐人は唐人屋敷へ、オランダ人は出島に隔離され、「明船(あきふね)」と呼ばれる通り空っぽとなるのだが、二重底や隠し棚などが設けられていて「抜け荷品」が用意されていた。取引場所は、唐人屋敷や出島、大浦の船の修理場を利用することが多かった。取締も厳しいが、買収され、協力していた役人や番人などが多かった。その他、通詞や隠密、中でも最も利用されていたのは、唐人屋敷にも出島にも出入りが許されていた遊女達だった。


抜け荷の現場ともいわれる観音禅寺

   

【犯科帳の世界2/罪と罰】

長崎の町の刑事裁判は、長崎奉行に任されていた。他の遠国奉行同様、追放刑までは独断で裁許できるが、遠島刑以上の刑については、長崎奉行から江戸表へ伺いをたて、その下知があって後に処罰されることになっていた。長崎から江戸までの往復には少なくとも3ヶ月以上かかり、その間に自害をしたり、病死したりする者もいた。そんな場合は、なんと!死体を塩漬けにして保存し、江戸からの下知を待って後に刑が執行されたのだという。幕府の承認を得ず、独断専行すれば処罰の対象になったという。

「抜け荷」の処罰は敲(たたき)や、入れ墨、追払い、死罪などで、出島や唐人屋敷の門前で見せしめを行なうこともあった。また、当時は女性の人権が認められていない時代。女房が亭主に隠れて抜け荷売りさばきなどの世話をした場合でも、亭主の方が監督不行届として、女房より重く罰されることもあったため、ばれたら、示し合わせ女房がやったことにして申し立てるような者も出てきた。そんな中、犯科帳8000余件のうち、女の身で獄門の極刑に処されたものが2件あった。その2例ともが、養子縁組の仲介を申し出た女が、その金だけをせしめ、子どもを川に捨てるという養育科詐欺の幼児殺しだった。1人は西坂の丘で獄門、もう1人も市中引き回しのうえ西坂の丘で獄門となった。

多くの罪人が処刑された西坂の丘

追払いという処分にも、段階がある。最も軽いのが「居町払」で、住んでいる町から追払われる。次が「市町払」、その次が「市中郷中払」、そして、本当に長崎から追払われる重追放が、「追放」である。奉行所の記録によく出てくる「市中郷中」という言葉だが、「市中」とは、長崎の中心の平坦な地域を占める町々であり、その周辺の西山、片淵、夫婦川、馬場(桜馬場)、伊良林、十善寺などの郷はいずれも長崎村で、「市中郷中」とは、この長崎村と浦上村を指している。 そして、親が罪人となり、処刑、追払いとなった子どもの多くは下人として働きに出されるのだった。

※ 敲(たたき)…三寸目竹を四尺に切り、三尺を四ツ割にして三ヶ所を縄で結んだもので牢番2人が左右から腰骨より上(背骨を避ける)をたたき、領外へ追放する。

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