長崎を護った人々2--長崎地役人

士農工商の身分制度が激しかった江戸時代において、長崎地役人は、本質的には貿易という商業に携わる「商」の身分とされていたが、実際は貿易だけではなく、医学や科学を受け入れ、通商を要求する異国船の来航に際しては文化的、外交的な役割を担い、鎖国体制を維持する上で常に最前線で活躍。いわば、国防の第一線を任された武士であり、経済を支える商人であり、新しい学問を受け入れる医師や学者、つまりは、長崎を支え盛り立てるエキスパートだった。

長崎地役人は長崎会所が作成する分限帳に記載され、長崎代官を筆頭に長崎会所調役、町年寄、会所の諸役、各町の乙名、組頭、オランダ通詞、唐通事など、2000人以上もいて、その家族を入れると1万人を越える長崎の町の中心的構成員だった。長崎会所とは、長崎貿易の上納金を幕府の重要な財源とするために、元禄11年(1698)に幕府が設立した海外貿易の事務を主管とする役所で、長崎奉行監督のもと長崎貿易を独占していた商人団の拠点。長崎地役人の役料は、この会所から支給されていた。長崎の町は、長崎地役人によって、行政、商業、貿易、防衛、警察などが担われていた。

長崎代官の職務は時代によって多少異なってくるが、元文4年(1739)に高木家が務めるようになってからは、長崎村、浦上村、茂木村などの七ヶ村の行政と徴税が主な仕事で、そのほか唐蘭輸入貨物の検査や米蔵や御船蔵、寺社の管理を担い、長崎市政や貿易は、町年寄のもとに町乙名、唐通事、オランダ通詞が行なった。もちろん、財政担当は長崎会所が握っていた。

オランダ船の入港を知らせる「遠見番」は、寛永15年(1638)に老中松平伊豆守の発案によって設置された番方と呼ばれる長崎の警備に当たる地役人で、唐人屋敷の警備「唐番」などとともに長崎奉行の支配下だった。


10人の遠見番の住居があった
ことが由来の十人町
 


【犯科帳の世界3/長崎弁もチラリ「口書」】


奉行以下、役所の上役はすべて江戸からの赴任者だから、一見、漢文のように見える「御家流」の規格は厳しく守られたが、「方言」がそのまま記される特別の場合もあった。犯人が白状した「口書」だ。「犯科帳」が、奉行の貴重な判決記録であることに違いはないが、それがいきなり書き下ろされたものではなく、前段に、「口書」が認められた。罪人の取調べが進み、犯人であると見極めがついた時点で、役人はその吟味の流れを調書とするのだ。それは、本人が犯罪を白状する形式になっていて、「口書」には、まず、本人の生立ちや前歴、両親や兄弟の関係などが記され、次に犯した罪の経緯を事細かに述べ(本文)、次に余罪がないことを述べ、再度悪事の顛末を要約。最後に行を改めて、「右の通り相違申上げず候、以上」として本人の名前を記し、役人がこれを本人に読み聞かせ、名前の下に爪印を押させる。どんな微罪でもこの手続きが行なわれた。「犯科帳」は、この「口書」の要約した悪事の顛末を本文にしたものというわけだ。
 

長崎を護った人々3--長崎聞役

正保4年(1647)、ポルトガル船が長崎に来航した際、西国14藩が長崎に置いた役職を「長崎聞役」といった。いわば、国際都市で働く外交官である。当初は「附人」といったが、宝暦から明和年間にかけて「聞役」の名称が定着。職務は長崎奉行からの指示の伝達や情報収集、長崎に設置された西国諸藩との情報交換などだった。諸藩、比較的町の中心部に蔵屋敷を設置。地役人も親しく出入りしていた。




聞役達の一番忙しい時期は、オランダ船や唐船が入港する6月下旬〜9月上旬。進物用の舶来品の購入も聞役の重要な任務で、藩主や藩主の子女らの使用品、幕府や他藩への贈答品など、様々な注文書が聞役の元へ届いた。

また、長崎聞役は、長崎奉行にとっても助かりものだった。長崎奉行は、西国諸藩に触書を伝達する際、本来は各地へ使者を派遣する必要があったが、長崎に諸藩聞役が常駐するようになってからは、触書や諸藩への指示は長崎警備の当番藩(福岡藩と佐賀藩で交代)の聞役に告げ、各藩の聞役へ伝達するようにと命じるようになった。

長崎の蔵屋敷は幕末まで活動を続け、長崎で各藩が自由貿易を行うようになると「商会」と改名して国産品を輸出し、艦船や鉄砲などを輸入。長崎聞役も引き続き情報収集活動を行いながら貿易にも従事した。
 

【犯科帳の世界4/一貫した書の見本「御家流」】

奉行所に残された多くの資料は、今でいう「公文書」であり、すべて聞役ならぬ「書役(書記)」という役職の手により、「御家流」という規格に基づいて書かれていた。「御家流」とは、鎌倉時代、京都粟田口青蓮院門跡尊円法親王の書を祖とするもので、室町時代には書道の中心的存在となったが、江戸時代になると幕府は公文書をしたためる時の書法に限定したことから、芸術性からは離れ、実用的なものとなった。もちろん、「犯科帳」も例にもれず、「御家流」で記され、200年間に渡り、多くの書役が引き継ぎながら書いたものであるにも関わらず、どこで書役が変わったのかわからないほど似た書体で一貫してあるという。「書役」の第一条件は、書道に優れた者というより、「御家流」をいかに型通りに書けるか、ということだったのだ。

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