【エピソード1/名奉行「牛込忠左衛門」】

寛文11年(1671)5月〜天和元年(1681)4月まで、約10年間長崎奉行を勤めた第24代長崎奉行 牛込忠左衛門勝登(かつなり)は、後世にその名を残す名奉行である。その間、長崎総町を80町にしたり、「犯科帳」にも登場する大事件、長崎代官 末次平蔵の密貿易事件を摘発し、末次平蔵を流罪にしたりするなど、辣腕(らつわん)を振るった。また、唐通事の林道栄へ官梅(かんばい)、彭城宣義に東閣(とうかく)の号を与えたのも、鳴滝、梅香崎、松森神社など、風流な地名を命名したのも忠左衛門で、彼は文化人としても知られる名奉行として数々のエピソードを残している。


第24代長崎奉行、牛込忠左衛門の句碑

※2008年.1月ナガジン!特集「働きビトのプチ観光」参照


初在勤/寛文11年(1671)9月〜寛文12年(1672)9月まで
2在勤/延宝元年(1673)9月〜延宝2年(1674)9月まで
3在勤/延宝3年(1675)9月〜延宝4年(1676)9月まで
4在勤/延宝5年(1677)9月〜延宝6年(1678)9月まで
5在勤/延宝7年(1679)9月〜延宝8年(1680)9月まで

名奉行、牛込忠左衛門の在任中、「犯科帳」に記された事件を2つご紹介しよう。

【末次平蔵の番頭 陰山九太夫の抜け荷】
延宝三年、長崎代官末次平蔵の召使い 陰山九太夫は、唐小通事下田惣右衛門と申合せ、王元官という唐人から船を買取り、王仁尚・王辰官という二人の唐人を番頭に雇い入れ、カンボジヤに渡って密貿易を企てた。それがばれて翌四年正月、多数の容疑者が捕えられ、二月に入牢、四月二十日に港内の裸島で処刑された。本人の刑罰が過酷であったばかりでなく、犯人の親・妻子・兄弟までも処刑された。
主犯の九太夫と弥惣右衛門の二人はともに町中引廻しの上磔となり、九太夫の一子虎之助は、九才という幼い身ながら獄門となった。十才になる次郎吉は、弥惣右衛門の養子ということで壱岐に流された。  
磨屋町の弥富九郎右衛門は、密貿易には直接あずからなかったが、唐人たちに資金を融通したり、使用船の修理の世話をしたというので町中引廻しの上斬罪獄門、八才になる一子市十郎は一切を白状したというかどで身分預けということで済んだ。  
末次平蔵はその資金が利用されたものの自らは密貿易には関与せず、また大官役としてかねて私曲がなかったことを認められ、とくに死一等を減じて長子平兵衛とともに隠岐へ流された。平蔵の母長福院と、平蔵の末子三十郎(三才)は壱岐へ流された。  
平蔵の金を九太夫に届ける役をした吉野藤兵衛は、密貿易には一切関与せず、取調べのときあるがまま隠さず申立てたということで死罪を免じ、長崎十里追放処分となった。  
平蔵の召使い井上市郎右衛門は、その責任を感じてか取調べ中に自害して果てた。十八才になるその子の市十郎も壱岐へ流された。  
日頃平蔵の名代役を勤めていた娘婿の末次平左衛門は江戸・京・大坂・堺・奈良・伏見・長崎近辺追放処分にあい、その後大赦が出たが行方が知れないままになった。




春徳寺にある末次家の墓
 
【遊女屋主人殺人の罪】
延宝五年十月二十日の夜、市平は主人の金屋喜右衛門の供をして丸山町渡辺与惣兵衛のところへ泊まった。与惣兵衛が真夜中に家に帰り、市平が寝ているところを杖で叩いたので、市平が起上り、口論した挙句与惣兵衛を殺した。市平は十一月十六日に斬罪になった。主人の喜右衛門は、自分の下僕が人を殺しているのを眼前に見ながら、そのまま一緒に家を出たことを咎められ、過料として本鍛冶屋町に新しく石橋を架けるように命じられた。
 

【エピソード2/人情奉行「遠山左衛門尉景晋」】

人情奉行、遠山左衛門尉景晋の在任中、「犯科帳」には記されなかった人情話をご紹介しよう。

遠山左衛門尉景晋と同時期、オランダ商館長として出島に赴任していたのが、156代商館長 ヘンドリック・ドゥーフ。彼は、遊女 瓜生野(うりうの)との間に、丈吉という子どもをもうけていた。文化12年、ドゥーフは任期を終え、帰国の日が迫っていた。歴代最長、17年もの間、出島オランダ商館長を勤めたドゥーフだったが、やっと帰国できるという喜びよりも、愛児 丈吉との別れの辛さの方が大きく、丈吉をオランダに連れて行きたいが、国法でそれが許されないドゥーフは、次のような嘆願書を時の長崎奉行、遠山景晋に差し出したという。
「どうか丈吉を地役人に取り立て、混血児として形見のせまい思いをさせないで欲しい。毎年バタビヤから白砂糖300籠を送るから、それを売って、その利子で丈吉を育てて欲しい」。
人情奉行で名高い息子「遠山の金さん」同様、父の景晋も人情奉行。
「願いの筋聞き届けた」。
ということで、ドゥーフの申し立て通りに丈吉は地役人に取り立てられた。しかし、丈吉はわずか17歳で病没。子を思う父、その父の心を汲んだ景晋の思いもむなしい結末を迎えてしまった。

※2003年.11月ナガジン!特集「出島回想録〜出島が日本と世界にもたらしたもの」参照
※2006年.9月ナガジン!特集「長崎・時代を駆け抜けた人物の墓」参照
 

最後に。
「犯科帳」とほぼ同じ時代に恵美須町吏員によって記された「寛宝日記」(寛永10年5月〜宝永5年12月/犯罪関連79件)には、同事件がさらに詳しく認められている。2つの違いは、いわば、町を護る役人側の目線と町に生きる町民側の目線の違いのようだ。また、長崎代官が直轄する周辺の村々で起こった事件記録や、その処理の仕方についての奉行の応答を添えた、代官記録「諸伺付札留」(文政2年〜嘉永末年/約410件)には、犯罪よりも庶民の日常や生活の一端、さらには、代官と奉行、代官と聞役などとの関係性や繋がりが垣間見られ面白い。江戸時代、海外貿易港として栄えた長崎は、遠国とはいえ、江戸、京、大坂と並ぶ都であり、さらに突出した特徴といえる国際都市だった。そこは、様々な情報と物が溢れ、それはそれは華やかな世界だったのだろう。欲に目がくらむ人々も多かったのかもしれない。現代とはまた違った豊かで多様な人間ドラマが「犯科帳の世界」にあった。
 
参考文献
『犯科帳の世界-長崎おもしろ草 第三巻』 森永種夫著
『寛宝日記と犯科帳』 森永種夫・越中哲也校著
『貿易都市長崎の研究』 本間貞夫著
『異国船渡来雑記』 久留米藩士 吉田秀文著/江越弘人・浦川和男校訂
『図説 長崎県の歴史』 外山幹夫 責任編集
『続々 長崎ものしり手帳』永島正一著
『白帆注進-出島貿易と長崎遠見番』 はた先好紀・江越弘人共著
『天領長崎秘録』 はた先好紀著

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