長崎で活躍し、長崎に眠る歴史上の人物にはどんな人がいたのだろうか? また、彼らはいかなる人生を歩んだのだろうか? 功績や人物像に迫ることで、これまで知りえなかったかつての長崎の姿が見えてくるかも? そこで、各時代を代表する人物、要人の墓が多い晧台寺墓域に眠る人物、そして過去にナガジンで紹介した人物にスポットを当ててみた。


ズバリ!今回のテーマは

「過去の人を知って、さらに長崎を知ろう!」 なのだ




■江戸以前から昭和まで
まずは、長崎の変遷を知る意味で、各時代を代表する人物をピックアップ!

◆江戸時代以前に活躍した人物の墓


平安中期の城址跡に残された墓碑群

●豪族・河原氏/大聖寺跡●


大聖寺跡の墓碑群

長崎市街地から南西に突き出した長崎半島の中央部に位置する三和地域内に、在地豪族・河原氏の古城址といわれている場所がある。そこは、約千年前の平安時代中期、始祖・河原大蔵太夫高満が家臣を伴ってこの地に入部したと伝えられている地で、現在の川原住吉神社の程近くにある。城構えとしては、古川堀を境に大聖寺跡、マッテン様と呼ばれる一帯で、今も半開きの井戸が残っている。その古城址「城山」の斜面一列に、五輪塔約28基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)約20基の古墳群がある。最も新しい五輪塔には、享禄4年(1531)の年記銘があり、最も古いものは15世紀の頃の物と推測されている。この五輪塔は鎌倉時代の宇宙思想を表した石造物で、宇宙の五代要素(空、風、火、水、地)を象徴している。市指定有形民俗文化財。

鎌倉時代から長崎を治めていた長崎氏の墓
●長崎甚左衛門純景/時津町浜田郷●


長崎甚左衛門の墓
夫婦川町にある春徳寺の後山は、“城の古址(しろのこし)”と呼ばれている。そこは、長崎氏の城砦があったといわれ、現在でも石垣などが残っている。長崎氏は、鎌倉時代から地頭として長崎を治めていた豪族で、始祖・小太郎重綱が貞応年間(1222〜1224)にこの地に下向したといわれている。その13代目が甚左衛門純景。甚左衛門は大村氏の重臣で、後にキリシタン大名として知られる大村純忠の娘婿となってほぼ現在の長崎市にあたる領域を治めた。永禄12年(1569)には、長崎最初の教会トードス・オス・サントスの建立を許可し、自らも入信した。しかし、慶長10年(1605)、長崎代官・村山等安(キリシタン代官)が大村喜前(よしあき)と協議した後、甚左衛門が治める長崎村を天領としたため、代償として甚左衛門に時津村ほか700万石を与えるという話を断わり、久留米の田中吉政に仕えた。しかし、田中氏の断絶後は再び大村藩に戻り、横瀬裏100万石を領し、元和7年(1621)、時津に没したという。西時津公民館脇の右手から入った木立の中にある墓碑は、子孫である大村内匠助長瀬により、元禄15年(1702)、建立したもの。県指定史跡。

◆江戸時代に活躍した人物の墓

林道栄と双璧をなした唐通事一門の墓
●唐通事・彭城仁左衛門宣義/崇福寺●


彭城家の墓
彭城(さかき)家は、元和4年(1618)頃に福建省福州から渡海してきたと伝えられる劉一水(りゅういっすい)を祖とし、代々唐通事をつとめた名門の家柄。なかでも2代目仁左衛門宣義は、明暦元年(1655)、唐僧・隠元禅師の通事に選ばれた人物だ。萬治2年(1659)には、大通事に昇進し、林道栄(はやしどうえい)と共に双璧をなしたという。なんと、その財産は奉行や代官にも匹敵したといわれている。本宅は、外浦町(現在の万才町付近)にあったと伝えられているが、鳴滝の県立鳴滝高校の辺りに別荘があり、そこへは長崎奉行支配勘定方に従事し各所を見聞しては歌を詠んでいた狂歌師・大田蜀山人(しょくさんじん)などの文人墨客も訪れていた。崇福寺にある彭城家の墓地には劉一水、仁左衛門宣義のほか、彭城貞徳の墓がある。この貞徳は、唐通事9代目・彭城三十郎の長男で、歴史画を最も得意とする洋画家だった。

御朱印貿易で活躍した長崎代官
●末次平蔵/春徳寺●


末次家の墓
初代末次平蔵政直は、博多商人の出で、御朱印貿易家として活躍。後に長崎代官となった人物。長崎代官職は、2代・茂貞、3代・茂房、4代・茂朝へと引き継がれ、特に2代・茂貞の時代に全盛を迎え、春徳寺の経営にも尽力したという。しかし、延宝4年(1676)、密貿易が発覚、4代・茂朝は隠岐へ流罪となり、4代に渡り権勢を誇った末次家も遂に没落することとなった。当初末次家の墓は、春徳寺の後山にあった。それは幕府の目をくらますためであり、墓所を荒れたままにしてカモフラージュを計ったものだった。戦後、2代・茂貞の墓など3基が本堂裏手の庭園横に配され、祀られている。

◆明治時代に活躍した人物の墓

哀しい死を遂げたグラバーの息子
●倉場富三郎/坂本国際墓地●


倉場富三郎の墓
トーマス・グラバーの子息・倉場富三郎は、蒸気トロール漁船をイギリスから輸入し、日本の水産業の振興に大いに貢献した人物。混血として生まれた富三郎は、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと懸命な努力を重ね、内外クラブという外国人との親睦団体を作り、日本初のパブリックコース、雲仙ゴルフ場の設立にも力を注いだ。しかし、第二次大戦中にスパイ容疑をかけられ、造船所が見えるグラバー邸を明け渡すよう強制される。そんな中で、同じ混血の境遇に生まれた妻・ワカが急死。やがて長崎に原爆が落とされ、絶望の中で終戦を迎えた富三郎は、その11日後、75歳で自らの命を絶った。遺言には街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付するよう記されていたという。現在、日英2つの祖国を持ち、苦悩に満ちた人生を歩んだ富三郎を偲ばせるものは、心から打ち込み完成させた魚類図鑑※1『グラバー図譜』と、グラバー園内に残る富三郎が造成させた日本初のアスファルト道路。墓は坂本国際墓地にあり、父・グラバーの隣で静かに眠っている。

長崎史を研究、世に紹介した長崎学の祖
●古賀十二郎/本蓮寺●

明治12年(1879)、代々筑前藩の御用達だった五島町の古賀家に誕生。ちょうど12代であったことから十二郎と名づけられたのだという。祖父・豊三郎は、商売を学ばせようと長崎市立商業学校に進め、十二郎は首席で卒業。在学中、菅沼貞風の『大日本商業史』の汎世界的スケールに啓発されて周囲の希望をよそに長崎の対外関係史の研究を志すようになる。19歳で上京し東京外語大学へと進み、その後広島の中学で教鞭を執っていたが、やはりかつての志を断てず長崎に戻り国内外の長崎史料に挑んだ。ケンペル、ツュンベリー、シーボルト他、海外の著述を読破すると、世間に紹介。自らの史論を展開していった。
生前出版した著書『長崎市史−風俗編』をはじめ、『長崎と海外文化』『西洋医術伝来史』ほか、没後も『長崎開港史』『長崎洋学史』『丸山遊女と紅毛人前・後編』などが刊行され、長崎史研究 “長崎学”の基盤を築いた第一人者として長崎学の祖といわれている。平成11年(1999)に、直木賞を受賞したなかにし礼の小説で映画化、ドラマ化もされ全国的にも話題となった『長崎ぶらぶら節』の主人公として大いに脚光を浴びた古賀十二郎は、昭和29年(1954)、76歳で逝去。本蓮寺に眠っている。ちなみに、劇中、十二郎と共に長崎に伝わる歌を探し求めた大正〜昭和初期の丸山芸者・愛八は、東小島の墓地に眠っている。
愛八〈松尾サダ〉の墓

◆大正・昭和時代に活躍した人物の墓

数多くの文人墨客と交流をもった銅座の富豪
●永見徳太郎/長照寺●


永見家の墓
銅座の殿様と呼ばれていた永見徳太郎。長崎にはかつて傘鉾町人という呼び名があった。これは、諏訪神社の秋の大祭である長崎くんちにおける各町の奉納踊りの先頭をつとめる町印である傘鉾に関する諸経費を一手に負担する旧家の富民に対する尊称。永見家は貿易商、諸藩への大名貸し、大地主として巨万の富を築いた、まさしく銅座の殿様だった。この永見家の6代目、徳太郎は年少の頃から永見夏汀の雅号で写真や絵画に親しみ、数々の作品を世に出した文化人だった。その上、竹久夢二や芥川龍之介、菊池寛などをはじめとした数多くの大正時代の文人墨客と交流を持ち、彼らが長崎を訪れた際には必ず永見家を訪問している。長照寺の山門を入った左手奥に墓石の側面には、徳太郎の大叔父で国立第十八銀行初代頭取として明治前半の長崎経済界を支えた永見伝三郎一族の名前と、6代目徳太郎と妻・銀子の名のみが刻まれた“永見家累代之墓”がある。そこで徳太郎夫妻の命日と死亡時の年齢が同じことに気づく。実は徳太郎は大正15年(1926)、経済上の蹉跌から先祖伝来の銅座を離れ家族と共に上京。文筆活動を続けたが、敗戦後心身を損ない熱海の仮寓から失踪したまま消息を絶った。徳太郎の命日は銀子に合わせたものだと推測されている。

愛と平和を発信し続ける長崎名誉市民
●永井隆博士/坂本国際墓地●

永井隆博士の墓

如己堂

医学博士であり、篤い信仰心を持つカトリック信徒だった永井隆博士は、原爆によって愛妻を亡くし、自分もまた被爆による白血病と戦いながら死の直前まで原子病の研究と発表を続けた。博士が寝たきりとなってから2人の子どもと共に住み多数の著書を執筆した2畳一間の家が、現在も上野町に残されている。敬虔なクリスチャンだった博士は、『聖書』の「己の如く隣人を愛せよ」という言葉からその家を『如己堂』と名付けた。隣接する平成12年に開館した記念館には博士の遺品、書画などのほか関係写真などが展示されているが、ここへは年間を通し全国から15万人以上の来場者が訪れ、全国の学生の平和学習の発信基地となっている。博士は余命3年と宣告されてから6年、昭和26年に永眠。長崎に移り住んだ多くの外国人と共に、また、原爆によって亡くなった愛妻・緑さんと共に坂本国際墓地に眠っている。永井博士は、長崎名誉市民第1号となった。
 
コラム★長崎に眠る人々の遺産

倉場富三郎が残した『グラバー図譜』

グラバー図譜
底引き網にかかる膨大な魚を見た富三郎が打ち込んだものが、分類学的研究ができる魚類図鑑※1『グラバー図譜』の制作。私費を投じて4人の画家に魚の絵を描かせ、明治45年(1912)から21年の歳月をかけて計34巻805図から構成される正式名称『日本西部及び南部魚類図譜』を完成させた。標本の大部分は富三郎自身が長崎魚市場に出向いて買い取り、グラバー邸の一室をアトリエに、活きのいい魚をそのまま描かせた。そのため英国製ケント紙の横長フォリオ判に筆彩で描かれた魚類はほとんどが実物大で描かれている。日本の絵師が描いたのに、筆致は西洋画風な表現になっていて、その鮮やかな色彩と精密さから日本4大魚類図鑑の一つといわれている代物だ。
現在、このグラバー図譜のレプリカはグラバー園内・旧スチイル記念館で見ることができる。ラテン語の学名、平仮名またはカタカナの和名と方言名が記されているのもとても興味深い。原色、原寸大、まるで生きているかのように鮮やかな表情を放つリアルな魚に出会うことができる。

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