代々町年寄を継ぐ幕末の西洋砲術家 ●高島秋帆(町年寄)●
高島家は代々現在の万才町(旧大村町)に住み市政に貢献した町年寄の家柄。高島家の屋敷は現在の長崎家庭裁判所の地にあった。高島秋帆(1798〜1865)は、この代々町年寄を世襲する高島家の代10代四郎兵衛茂紀(しろうべえしげのり/1772〜1836)の子として生まれ、出島や唐人屋敷付近の警備を受け持っていた父・四郎兵衛について10代の頃から出島に出入りし化学に興味を持つ。四郎兵衛は幕府が派遣した荻野流の増補新術の流れを汲んだ坂本孫之進から砲術を学び、後に荻野流の師範になったことから、秋帆も四郎兵衛に学び師範役となり、町年寄になってからは幕府の許可を得て外国の武器の輸入を行ない個人的にもかなりの武器を所持していたという。実際に大砲などを自分で造り他の藩へ売ることもあった。秋帆のところには諸藩から砲術を学びに来る者も多く、約200人もの門弟がいたという。町年寄を継いだ翌年の天保9年(1838)、秋帆41歳の時、万才町(旧大村町)の本邸は全焼し現東小島の別邸(高島秋帆旧宅跡)に移転した(国指定史跡)。幕末における砲術家として知られる秋帆は、武州徳丸ヶ原での砲術調練後、ざん訴にあったが、許されて講武所砲術指南役、具足奉行となったが、孫の太郎が夭逝し、お香夫人が死に、子どもの浅五郎が病死し、自らも慶応2年(1866)、69歳で病死した。長崎の地役人としては高木家に次ぐ名門だった高島家は11代高島秋帆に至って実質的には断絶した。
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