■晧台寺墓域巡り
江戸時代、長崎における朱印地寺社(晧台寺・大音寺・本蓮寺・諏訪神社・大徳寺)のひとつであった晧台寺に眠る人々の中から有名人をピックアップ!

幕末の志士とも交流があった長崎の豪商
●小曽根家●


小曽根家・屋敷跡
小曽根家といえば六左衛門にはじまり、乾堂が継ぎ、現在も跡が継がれる名家。江戸から明治にかけては、長崎を代表する豪商だった。平戸の貿易商・平戸道喜が祖で、彼は長崎に移り出島を構築した25人の出島町人の一人で、工事の指揮監督を司った采配人。また、慶安元年(1648)に眼鏡橋を修復したのも道喜だった。六左衛門の子どもである乾堂は、聡明で書画に長じ、篆刻(てんこく)に巧みだったことで知られる人物。特に隷書(れいしょ)が天下一品と称されていた。長崎県庁前国道34号線の一本裏の道筋、現在の長崎地方法務局の場所に小曽根家の屋敷があった。この屋敷へは勝海舟、坂本龍馬などの志士がよく出入りしていた。また、海援隊の近藤昶次郎(ちょうじろう)が亀山社中との約束の中でイギリスへ独断で渡航しようとした疑いが発覚し、小曽根邸の一室で切腹した。晧台寺後山にある小曽根家の墓には、乾堂の墓はなく、平戸道喜の墓碑と共に近藤昶次郎の墓があり、墓石には坂本龍馬によって別名「梅花書屋(ばいかしょおく)氏之墓」と刻まれている。

代々阿蘭陀通詞の超エリート!
●大通詞・加福吉左衛門●


加福家の墓
始祖である吉左衛門は寛文4年(1664)、小通詞となり、同8年(1668)、大通詞となった。吉左衛門はポルトガル語に巧みで、ポルトガル人が国外退去になる以前からポルトガルとの通訳だった人物。加福家は吉左衛門以降、8代に渡って阿蘭陀通詞を勤めたエリート一家。しかし、始祖である吉左衛門は予期せぬ事件によって命を落している。元禄2年(1679)、吉左衛門はオランダ商館長・コルネリス・ファン・アウトホールンの江戸参府に同行。長崎を出発してから4日後、諫早宿、彼杵宿、武雄宿などを経て、付近で最大級の宿場である田代宿(現在の佐賀県鳥栖市)に到着した。一行は長崎街道最大の難所である冷水峠越えを翌日にひかえていたため、早々に床についたのだが、亥の刻(22時頃)に吉左衛門は検使・豊田五左衛門と口論となり、切り殺されてしまったのだった。阿蘭陀通詞も帯刀を許されていたが吉左衛門は剣の心得が一切なく、8度目の江戸参府中、72歳で没した。加福家の墓は、風頭公園に隣接した一等地にある。

オランダ商館長・ドーフの息子
●道富丈吉●


道富丈吉の墓


HとDの花文字が刻まれた花立石

道富丈吉は、寛政12年(1800)から17年間に渡り、出島オランダ商館長を勤めたヘンドリック・ドーフと、丸山遊女・瓜生野(うりうの)との間に生まれた人物だ。ドーフは丈吉を溺愛したが、任期を終え帰国。ドーフは、長崎奉行・遠山景晋に願い出て白砂糖300籠を長崎会所に寄託することによって、その利子を生活費として瓜生野親子に毎年渡してもらうようにとり計らった。長崎の人々もドーフの願いに応え、丈吉を奉行所の役人(唐物目利)に育て上げたが、丈吉は17歳の若さでこの世を去り、長崎の人々はその短い人生を惜しんだという。墓石前に2つの花立石がある。右の花立石には、母の紋である揚げ羽蝶、そして左の花立石には、父であるヘンドリック・ドーフの頭文字、HとDを組み合せた花文字の紋は刻まれている。

長崎の和華蘭文化を象徴する亀山焼の創始者
●大神甚五平●


文化3年(1806)頃、オランダ人に売る水瓶製造の窯を築いたことにはじまる亀山焼の創始者のひとり、大神甚五平。亀山焼に対して、当時奉行所も融資を行なっていたが、事業は振るわずわずか8年で廃業。その後、借金返済と失業者を出さないために大神甚五平がひとり跡を引き受け、水瓶造りから南京染付を写した白磁染付に変え成功した。亀山焼には上質な中国輸入の花呉須という薬を使用。さらに土も中国から取り寄せた。長崎八幡町生まれの南画家・木下逸雲などが支援したこともあり、長崎を訪れた文人墨客が下絵をするなどしたため通向けの名陶へと成長。残念ながら取引の失敗等の影響で慶応元年(1865)に廃絶した。長崎とオランダ、中国とのつながり、また、それら海外文化の風が吹く長崎の地に憧れ訪れた文人墨客達の足跡を写し出す貴重な長崎の文化遺産を生み出したことは、大神甚五平の大きな功績といえるだろう。

日本写真の始祖・彦馬が眠る風頭山
●上野彦馬●


上野彦馬の墓
隣接する風頭公園に坂本龍馬の銅像が建つ風頭山のてっぺん。見晴らしのいいこの地は、彦馬永眠の地にふさわしい場所かもしれない。それは、彦馬が撮影した最も有名な写真が、誰もが一度は目にしたことがある、あの!羽織袴にブーツを履いた坂本龍馬の写真だから。寺町、晧台寺後山の最後部に位置する上野家の墓には、上野彦馬や父俊之丞の墓碑を含む23基の墓碑が並んでいる。父・上野俊之丞は、代々の絵師であり冶金術にも精通していた人物で、幸野家を継いで長崎奉行所の御用時計師も務めていた人物。彼は蘭館出入りの自由を許され、出島商館医や蘭学者などにオランダ語や蘭学を学び、後に火薬の原料である硝石の製造を行なったり、製薬業・中島更紗の開発・硝石の研究などに力を注いだりした。また、日本に初めて写真機械を輸入したのも俊之丞だった。
文久2年(1862)、彦馬は中島川畔に撮影局を開設。幕末期には坂本龍馬や勝海舟をはじめ多くの著名人や時代の風物を撮影、明治期に入ってからも精力的な活動を続けた。明治7年(1874)に金星が太陽面を通過する際は、アメリカ隊の依頼を受け、長崎大平山で観測写真撮影を行っている。また、西南戦争の際には従軍写真師を務め、これは報道写真の先駆けとして評価されている。日本写真の開祖として大きな足跡を残した彦馬は明治37年(1904)に永眠。享年67歳だった。


代々町年寄を継ぐ幕末の西洋砲術家
●高島秋帆(町年寄)●


高島家は代々現在の万才町(旧大村町)に住み市政に貢献した町年寄の家柄。高島家の屋敷は現在の長崎家庭裁判所の地にあった。高島秋帆(1798〜1865)は、この代々町年寄を世襲する高島家の代10代四郎兵衛茂紀(しろうべえしげのり/1772〜1836)の子として生まれ、出島や唐人屋敷付近の警備を受け持っていた父・四郎兵衛について10代の頃から出島に出入りし化学に興味を持つ。四郎兵衛は幕府が派遣した荻野流の増補新術の流れを汲んだ坂本孫之進から砲術を学び、後に荻野流の師範になったことから、秋帆も四郎兵衛に学び師範役となり、町年寄になってからは幕府の許可を得て外国の武器の輸入を行ない個人的にもかなりの武器を所持していたという。実際に大砲などを自分で造り他の藩へ売ることもあった。秋帆のところには諸藩から砲術を学びに来る者も多く、約200人もの門弟がいたという。町年寄を継いだ翌年の天保9年(1838)、秋帆41歳の時、万才町(旧大村町)の本邸は全焼し現東小島の別邸(高島秋帆旧宅跡)に移転した(国指定史跡)。幕末における砲術家として知られる秋帆は、武州徳丸ヶ原での砲術調練後、ざん訴にあったが、許されて講武所砲術指南役、具足奉行となったが、孫の太郎が夭逝し、お香夫人が死に、子どもの浅五郎が病死し、自らも慶応2年(1866)、69歳で病死した。長崎の地役人としては高木家に次ぐ名門だった高島家は11代高島秋帆に至って実質的には断絶した。

 
コラム★長崎に眠る人々の遺産

小曽根乾堂が残した「小曽根町」

文政11年(1828)、六左衛門の長男として産まれた乾堂。乾堂は諱で、本名・六郎といった。幼い時から学問技芸に精進し、有名な書家・画人・学識者の指導を受けその技を磨き、篆刻にいたっては早くも17、8歳の頃には、学者が舌を巻くほどの天才的な技を発揮。また、明清楽小曽根流を確立し、明治天皇の御前演奏をつとめた経験を持つ。さらに乾堂は財政貨殖の才にも長けていた。日清修好条約締結への参加、私立小学校(市立小曽根小学校、後に校舎一切を長崎市に寄贈したため市立浪の平小学校)の設立。浪の平・大平寺、金刀比羅宮の建立など、数々の功績を残す乾堂だが、最も偉大なものといえば、清国との経済交流(殖産貿易)の物資の上げ下ろしと船舶の発着に必要だった埠頭の建設だろう。これは、かつて道栄が浜(元の下り松、現在の松が枝町)から堀の内(現在の浪の平一帯)に及ぶ埋築。安政6年(1859)、当時大村藩の所領だった土地を、許可を得、海岸に沿った断崖580m、と畑地約100アールの面積を、自費をもって造成した。乾堂が陣頭に立ち工事にあたった結果、翌万延元年(1860)、遂に完成。これが後に外国人居留地となった現在の松が枝町、小曽根町、浪の平町一帯だ。後日、その一半が特別配慮で私有地となり「小曽根町」という町名がつけられたのだという。晧台寺の小曽根家の墓に乾堂の墓はなく、鍋冠山麓、大平寺の墓地に眠っている。

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