異国から伝わった
今は定番の食文化

異国の薫りを感じる食べ物の代表格といえば、牛乳をはじめ、バターやチーズなどの乳製品。全国に普及し一般的になったのは戦後になってからだ。そもそもバターが日本に紹介されたのは明治維新後といわれるが、すでに長崎では江戸時代、出島で行われたオランダ正月の宴に出された献立を記した「長崎名勝図絵」に登場している。出島では、オランダ船で運ばれてきた牛を飼育したのだ。チーズは、19世紀になってからオランダから長崎に持ち込まれ、当時は「長命丸」と呼ばれ、バターと同じように医薬品扱いだった。そう言えば、ポンペと共に長崎大学医学部の前身、を日本で最初の西洋式の病院「小島養生所」(医学伝習所の後身である養生所・医学所)の創設者である松本良順は、長崎で学んでいる際に牛乳の滋養効能を知り、牛乳を飲むことを広く薦めていた。
※2008年12月 ナガジン!特集「西洋の風が服−長崎の医学史を支えた人物」参照

パンもすでに鎖国時代に伝わっていて、出島出入りのパン屋が市中各所に点在していた。しかし、日本人で初めての製パン所を併設したのは、明治10年頃、大浦の生鮮食料品を取り扱っていた片岡商店という店。居留地の外国人相手だと出島の規模とは大違い。さぞ繁盛したことだろう。

そして、明治期に伝わった食文化の代表格がハム&ソーセージ。明治4年、食肉が広まり、販売権をめぐって商人南屋喜重に屠牛場免札が許される。ハム&ソーセージの製法をアメリカ人から学んだのもこの大浦の伊右衛門氏のようで自らの工場で製造販売した。同じ時期にそれまでは出島オランダ商館や唐人に牛や豚の生肉を売っていた浦岡福松がオランダ人からハム・ソーセージの製法を教わり下籠町に浦岡ハム製造所を創業する。「羅漢ハム」と呼ばれたこの製法は、豚モモを塩漬けにして寝かせ骨を抜いて香料を加えてから布を巻き薫製させたものだった。もっとも、これらは居留地に移住してきた外国人相手の商売で、地元の人が肉やパンを食べるようになるのは、もう少し後の話。


戦後『長崎ハム』と改称し販売したが 平成に入り廃業。現在は、のれん分けした新大工町「肉よし」で販売。
居留地エリアに外国人向けの商店が増えるのには、長崎居留外国人の遊歩範囲に制限があったためだろう。特に宣教師の行動は制限されていて、大浦天主堂には役人が入り込み、宣教師の行動を逐一報告していたという。


『大浦川と居留地』
長崎大学附属図書館所蔵

缶詰製造の祖・松田雅典が広運館のフランス人教師レオン・デュリーから缶詰製造の指導を受けたのも明治初期。明治12年には県立缶詰試験場が炉粕町通り沿いにでき、外国から缶詰製造機械を買い入れ試作。製品は海外にも送られ好評を得たという。

すでに明治元年に英国人ノース&レーが横浜で炭酸飲料水各種を居留外国人用に製造販売していたが、長崎では明治10年、ドクトル・ジャーランに清涼飲料製法を学んだ天草出身の古田勝次が大村町で「手引ラムネ」の製造販売を開始。ビー玉が栓となった定番のラムネの瓶は明治時代からあって、手作りだったためちょっといびつなものだったとか。


創業時、大村町(現万才町)にあった
古田勝吉商店


フランス人宣教師 ド・ロ神父が外海地区にマカロニ工場を建設したのは明治16年。日本ではじめてパスタが作られ、おそらくは日本ではじめて口にしたのは、外海の信者さんたちだったのだろう。

その頃、現在も寺町通りで営業する「萬順製菓」で作る中国菓子マファールが「よりより」と名付けられる。いわば「よりより」は、長崎人向けの愛称。今も健在のネーミングは、100年余り親しまれているというわけだ。

明治の中頃、西洋レストランも増えていった。西浜町の「清洋亭」、小島郷の「福屋」、 外浦町の「外国亭」、馬町の「自由亭」など……。しかし、多くの国内外人の舌を喜ばせた西洋料理店「福屋」は、明治後期に閉店。変わって和洋料理店が建つ。

『西洋料理屋・福屋』
長崎大学附属図書館所蔵
明治中期には一般にキャベツの栽培がはじまる。

その後、このキャベツが欠かせない、長崎名物が登場する。福建省出身の華僑・陳平順が、中国人の学生さんのために考案された「ちゃんぽん」だ。
※2003年10月 ナガジン!特集「長崎大衆食伝 ちゃんぽん&皿うどん」参照

そして、明治後期になると、イチゴやカリフラワーなど、すでに伝来はしていたものの鑑賞用だった植物が露地で栽培されるようになる。

また、明治45年には、天保元年(1830)中島川河畔時代から80年間、長崎町民の台所を預かってきた材木町市場が姿を消し、尾上町へ移転。水揚げと輸送を直結する新漁港、新生長崎魚市場が誕生した。
 

異国から伝わった
今は定番のビジネス&遊戯

明治3年(1870)、人力車が誕生する。一般交通用として長崎の居留地を走る。料金は梅ケ崎を起点に大黒町まで10銭。日本のオリジナルだが、最初に東京府に出願した佐賀の和泉要助は、福沢諭吉のアメリカ土産の「乳母車」をヒントに発明したのだとか。大浦海岸通から一筋入った辺りは、人力車がスムーズに走れるよう石畳が敷かれ、側溝も整備された。夜道を照らす街灯も立てられた。明治30年代には長崎市内の人力車の数が1300台になる。


『中島川の橋』
長崎大学附属図書館所蔵




『大浦外国人居留地の街路』
長崎大学附属図書館所蔵

明治5年(1872)には、東濱町(現浜町)に全国で18番目の国立銀行として第十八国立銀行が発展開業する。現在の十八銀行の前身だ。

翌年、国内最古の内外海運専門クリーニング店として青田クリーニング商会(青田クリーニング商会は現存)が大浦地区に開業。

長崎についた船の毛布やシーツなどを洗うビジネスが誕生する。後に大浦川周辺には、船員たちの衣類の洗濯を請け負うクリーニング店が軒を連ね洗濯物がはためいていたという。


東濱町の酒類商・木貞商店の品川貞五郎氏は、アメリカ人宣教師から洗濯石鹸の話を聞き試作を重ね原料の調合など苦心の末、洗濯石鹸「長崎石鹸」を創製し売出すようになる。横浜で製造される1年前のことで、これも日本初の石鹸製造だった。

異国の文字の看板を掲げた外国人向けのショッピング街が形成されたのは、本籠町(現籠町)。日本人経営の商店には外国人好みの長崎土産が陳列された。明治後期、国際港として隆盛をきわめた長崎で誕生したのが、絵葉書。今では観光地土産の定番である絵葉書も、この時期に長崎で発展を遂げた観光産業なのだ。長崎風景のスナップ写真を印刷した白黒写真の絵葉書に、若い女性が一枚ごと手作業で色をつけ完成。驚く数の種類が商品化された。

同じく、イギリス貿易商 オルトが、下り松(現在の大浦)にあったイギリス人船大工に依頼して建造したのが日本で初めてのヨット。外国人達によるヨットレース「長崎レガッタ」が開催され、その流れから、明治中期には日本人によるヨットクラブも設立されるなど、定着していった。

明治中期、中心部のエゴばたに柳などを植えて柳通りと呼ぶようになる。都市景観を意識したことだろう。そんな流れから明治20年頃には、知事が中島川上流中川郷の地に吉野桜数千本を植え名所になる。そこは、後に有志により開かれ、オーストリアのカルルス温泉分析表を取り寄せ、その成分を調合し温泉に入れ「中川カルルス温泉」を開業する。戸町にも温泉場がある敷地約1千坪の公園が開設され「戸町カルルス」と呼ばれた。


『カルルス中川の桜』
長崎大学附属図書館所蔵

明治後期には、日露戦争後、参拝者が急激に増えおみくじを希望する人が増え、諏訪神社がはじめておみくじを設置する。しかし、日本初の「英文みくじ」の登場は大正になってのことだった。
 

明治期のこんな出来事

明治元年、2年と、長崎の氏神様、諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」の様相に変化が起きた。知事沢宣嘉が諏訪神事を改革、華美禁止の厳令を下したのだ。なにやら、長崎に来た沢氏は、この祭りのあまりの華美さに驚いたらしく、奉納踊りは全廃、傘鉾も小さく飾りは町名を記す程のものにさせるなど規制。ずいぶんと殺風景なものへとなってしまったとか。しかし、退任した明治3年からはほぼ以前と同様に元通り。ここではかろうじて「長崎くんち」衰退の危機から脱したのだが、思わぬことが起こる。コレラの蔓延だ。明治期はコレラが何度となく流行し、毎年恒例の「長崎くんち」の日程を狂わせることも多かった。

最後に。
太陽暦を採用したのも、「平民苗字必称義務令」というのが布告され、国民はみんな苗字を持つことが義務づけられるようになったのも、国際結婚が公的に認められることになったのも全部、明治に入ってから。明治時代=何もかもが一新され、現代の基盤が作られた時代だったといえるだろう。まだ、長崎の町のあちらこちらには、明治時代を彷彿とさせる風情が残っている。100年余り昔の遠い話だが、身近に感じる明治期の産物を、時に意識してみながら触れてみるのも面白いものだ。

参考文献
『長崎事典〜風俗文化編〜』長崎文献社
『長崎事典〜歴史編〜』長崎文献社
『長崎県文化百選 事始め編』長崎県
『ながさきことはじめ』長崎文献社
『華の長崎 秘蔵絵葉書コレクション』ブライアン・バークガフニ編著 長崎新聞社
『長崎事典〜産業社会編〜』長崎文献社
『長崎県大百科事典』長崎新聞社

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