花街 丸山の風情を今に伝える丸山界隈。遊郭が建ち並んでいた遊女時代と、その後の旅芸者、町芸者、山芸者の違いにはじまる丸山芸者の成り立ち……。この地を訪れた内外の要人が感じた丸山の地に伝わる数々の「物語」を紐解きながら、かつての花街風情を思い描いてみよう。


ズバリ!今回のテーマは
「今も昔も丸山は華やかな街」なのだ




はじめに
1年の中で最高の賑わいを見せる10月初旬の長崎。町の氏神、諏訪神社の大祭『長崎くんち』である。長崎くんちがはじまったとされる寛永11年(1634)、2人の遊女が神前で舞を奉納したと伝えられている。二人の名前は、「高尾」と「音羽」。博多柳町の遊女街から長崎へ、丸山遊女となった遊女たちだった。
   

長崎における遊女屋のはじまり




「丸山」は、今から約370年前の寛永19年(1642)、市中に散在していた遊女屋を官命により1ケ所に集めたのがはじまりといわれ、丸山町と寄合町を合わせた花街の総称だ。
※2002.10月ナガジン!特集『花街跡をたずねて…丸山ぶらぶら散策のススメ』参照

丸山には、主に長崎の町民や上方の商人が多く出入りしていたが、丸山遊女が唐人屋敷やオランダ屋敷(出島)への出入りを許されていたため、唐人やオランダ人と交流があったことが他の花街と違う最大の特徴。そんな特徴を捉えた丸山を舞台とした古川柳が今も伝わる。

丸山の 恋は一万三千里

13,000里が意味するのは、長崎とオランダの距離。丸山遊女とオランダ人との恋愛が詠まれている。

丸山へ女のよめぬ文が来る

「よめぬ文」とは、オランダ語のこと。引田屋には横文字の看板があったともいわれている。

さて、長崎における遊女屋のはじまりは、この丸山以前。元亀元年(1570)の長崎開港で町建てが行なわれ六ヵ町が誕生して間もなくのことだ。筑前の博多商人が来崎し、一の堀の外側に博多町を、また、文禄年間(1592〜96)に再び来崎した博多の商人が当時の市街地のはずれに別の博多町を開き、前者が本博多町、後者が今博多町となり、この今博多町に宿屋が建っていった。そこに博多柳町の遊女が連れてこられ、長崎で初めてポルトガル人の船乗りを相手にした遊女屋が置かれたのだという。また、時代を同じくして本紙屋町、新紙屋町(現八幡町)、新高麗町(現伊勢町)、大井手町などの地域に自然発生的に遊女屋が建ちはじめ、茂木街道近くの高麗町(現万屋町)、今石灰町(現鍛冶屋町)、小島村丸山付近など、街道から少し離れた場所にも遊女屋は建ちはじめた。
その後、慶長11、12年(1606-7)に紙屋町や高麗町などの遊女屋が、今博多町の近くに移転させられたことによって寄合町という名が生まれ、さらに今博多町とこの寄合町の遊女屋が、寛永19年(1642)丸山に近い小島村に集められたことによって花街「丸山」となったのだった。

今博多町の遊女屋へ向かう武士達が
編笠で顔を隠したことに由来する編笠橋

この丸山という町名の由来はゆるやかな傾斜だったことから丸山と呼ばれた説、かつて平戸が開港地として栄えた頃、丸山という所に遊女屋を置いていたことから長崎も丸山と呼ぶようになったという2つの説がある。丸山は、別名「山」と呼ばれ、当時「山に行く」といえば遊廓に遊びに行くということを意味した。そのため、丸山の入口付近は「山の口」(現丸山交番付近)、寄合町の坂を登りきったあたりは「山頭」。今でも「山頭温泉」という銭湯名にその名を残している。
※2006.3月ナガジン!特集『長崎!リゾート気分の天然風呂vs観光スポット近くの町の湯』参照





粋人が語る丸山遊女の絢爛さ



日本の富貴の宝の津、秋舟入て有さま、糸・巻物・薬物・鮫・伽羅・諸道具の入札、年々大分の物なるに、是をあまさず。
長崎に丸山といふ所なくば、上方の金銀、無事に帰宅すべし、爰(ここ)通ひの商ひ、海上の気遣いの外、何時をしらぬ恋風おそろし。

正月の近づくころも、酒常住のたのしみ、此津は身過の心やすき所なり。 金山が居すがたのりこん〈利根〉なやら、花鳥が首すじの白いやら、夢にも見ずして

江戸時代の人形浄瑠璃作者であり俳人の井原西鶴の浮世草子に登場する丸山に関する一節である。
長崎の丸山は、京の島原、江戸(東京)の吉原、上方(大坂)の新町と並び称される有名な花街。長崎港に入港した唐船やオランダ船の積荷は、長崎の商人をはじめとして、上方や江戸などの貿易商人が入札によって買い求めていた。「鮫」や香木の一種「伽羅」はいずれも高級品で、長崎ならではの珍宝。「金山」「花鳥」というのは、当時、上方にまでその名を知られた遊女で、こと「金山」は、井原西鶴の処女作『好色一代男』にも登場する。また、遊女にとってなくてはならぬたしなみのひとつであった「伽羅」や「沈香」は、国際貿易都市、丸山遊女の特権で、他郷の遊女より先に手に入れることができ、各地の遊女達の羨望の対象だったとか。

そんな丸山遊女の特徴のひとつに、その豪華な衣装がある。特に正月八日に行なわれる※1絵踏み衣装はほかに類を見ない豪華絢爛なもので、その豪華さは遠く江戸まで知られていた程。つまり、舶来品の生地で仕立てられた衣装と、べっ甲細工の櫛やかんざし。まさにエキゾチックそのもの! 当時の最先端モードだったというわけだ。また、寝道具も麗しいと有名だった。
※1 絵踏み…庶民から遊女まで、キリシタンでないことを証明するために長崎奉行所が取り締まり行なっていた正月行事。寛永5年(1628)〜安政4年(1857)。

京の女郎に、長崎いせう(衣装)、江戸のいきじに、はればれと、大さかの揚やで遊びたい。何と通ではないかいな。

天明期(1781〜1788)、一世を風靡した狂歌人、蜀山人(大田南畝)の『和漢同詠道行』に記された時花(はやり)唄である。
しかし、時をさかのぼること延宝8年(1680)刊行の『難波鑑』には、

されば、去人、長崎の寝道具にて、京の上瓠覆犬腓Δ蹐Α砲法江戸の張りを持たせ、大坂の九軒町ほど女のよき所はなきと、誰しも云けるぞかし。

とある。いつの間にか「寝道具」も含めた総称として「衣装」となったようだ。
さて、そんな衣装も幕末の頃には変化を見せていく。一貫して華美なものに違いはなかったが、古風なものは廃れていき、自然な素人風の美服を身につけた遊女が増えていった。開国後の明治5年に遊女屋廃止と共に貸座敷営業が許されるようになると郭外に出ることは禁止され、外国人は遊女を呼び迎えることができなくなった。すると、遊女に洋装させ、外国人客を誘致する揚屋も登場。逆に日本人男性の人気を集めたという話も残る。

遊女冨菊が奉献した手水鉢(中の茶屋)


お相手しだいで格も変わる!?

遊女の格付けは、太夫・みせ(店)・並の三つ。また、丸山遊女の場合は、最大の特徴である日本行き、唐人行き、オランダ行きの三種があり、このうち日本行きが最も上等で、唐人行き、オランダ行きへと続いた。だからといってオランダ行き、唐人行きの遊女の容姿や教養が日本行きに劣るというものではなく、揚代が一番高かったのはオランダ行き。では、なぜ日本行きが上等だったかというと、多くの遊女が日本人以外の男性との交渉を拒否したからだった。しかし、太夫も唐人屋敷に出向くこともあった。そのお目当ては、高価な贈り物。このお目当てのためにすすんで唐人行きを申し出る遊女もいたようだ。

丸山に珊瑚珠生む 女あり

唐館を出る前に探番が厳しい検査がなされた。唐人行き遊女の持ち物から……。

丸山の傾城 船を傾ける

丸山に登楼して散財する男も多かった……という話。

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