外国人が愛した丸山遊女

丸山遊女のうち、後世にその名を残すのは、唐人行き、オランダ行きの遊女が断然多い。南画を日本に伝えた江芸閣(こううんかく)と袖笑(そでさき)。出島オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフと瓜生野(うりうの)。出島オランダ商館医のシーボルトと其扇(そのぎ/お稲)。彼らの間には子どもも生まれた。

アメリカ商人 グスタフ・ウィルケンスの墓に玉菊、オランダ商人 ジェイムズ・ラインフォードの墓に八ツ橋。稲佐悟真寺国際墓地に眠る2人の外国人商人の墓碑には、遊女の名が刻まれている。このように長崎中には、長崎に訪れた外国人と遊女の悲恋話や足跡がたくさん残っている。






しかし、こんな話も残っている。 幕末、長崎に近代医学を伝えたポンペは、あまりにもヨーロッパと違う日本の売春制度に驚きを隠せないと言うのだ。

「日本人は夫婦以外のルーズな性行為を悪いこととは思っていない。まして「悪」とは思っていない。(中略)日本の宗教も社会も男子に結婚以外の婦人との交渉を禁じていない。したがって日本では、われわれヨーロッパ人からみてびっくりするような奇妙な事がみられるのである。」

日本の遊女、つまり丸山遊女に対するこのような見方は、ポンペだけではなく、出島商館医として滞在したケンペルやツュンベリーなども同様だったという。

同じ母国を持つ外国人、またほぼ同じ時代であっても、様々な見方があったということだ。

今、丸山を歩いて気づくこと。
花街「丸山」を構成した丸山町と寄合町。丸山町は西から東に、寄合町は北から南に、それぞれに傾斜のあるL字型となっている。江戸時代にはこの傾斜に2、3ヶ所ずつ階段が設けられ、寄合町には10数段の階段があったというが、明治時代となると人力車が利用されるようになり、石段は取り除かれてしまった。しかし、注意深く見て行くと、今でもその名残である敷地間の段落ちを目にする場所が残っている。


遊女と一線を画した「芸子」の登場

長崎芸者の誕生は、吉原や島原の郭芸者よりも遅い。ご周知の通り、遊女と違い売色行為を行なわず、芸のみを売るのが芸子の本分。そんな芸子が、初めて長崎の町に姿を現したのは、天明元年(1781)頃。大坂から下ってきた3人の旅芸子がはじまりだった。長崎奉行所に願い出て、一期100日の期限つきで座敷を勤めるようになったという。しかし、滞在期間はわずか100日。入っては引き上げ、引き上げては入るということを繰り返していた。

遊女に比べ、地味な衣装をまとった芸子ではあったが、その後、文化年間にかけて丸山を拠点に大いに繁盛。しかし当時の長崎遊女も芸妓的な役割も持っていたので不評と反発を受け、文化14年(1817)、長崎奉行は旅芸妓と太鼓持ちに今後一切の長崎滞在を禁じた。その頃、旅芸子の存在に刺激を受け、じげ(地元)芸子も発生していて、市内各所、または丸山の廓内にも住んでいた。なかにし礼原作『長崎ぶらぶら節』にも表現された、いわゆる「山芸妓」と「町芸妓」といわれる気風の違いだ。長崎では芸子のことを「芸子衆(げいこし)」と呼ぶ。

元禄13年(1700)創建、
丸山遊女や丸山芸者の信仰を集めたお宮


遊女は遊女屋、芸子衆は茶屋と揚屋

江戸時代、丸山には遊女屋のほかに茶屋と揚屋が存在していたが、一般に遊女屋は遊女を置いた宿屋で、茶屋と揚屋は現在でいう料亭を意味するもの、客に料理を提供していた場所だった。長崎において茶屋と揚屋の関係は、遊女屋に付属したものを茶屋といい、付属せず独立したものを揚屋と呼んでいたという。 料理は作らず、外注し取り寄せるのが「茶屋」。丸山には遊女屋「中の筑後屋」に付属した「中の茶屋」と、遊女屋「引田屋(ひけたや)」に付属した「花月楼」の2軒だけが存在していた。民謡「ぶらぶら節」にその名を唄われる茶屋である。一方、揚屋では宴席に出す料理を調理場で作っていた。今も変わらず、その伝統を受け継ぐ「料亭」の元祖であり、芸子衆を招いてお座敷で料理を食べながら遊ぶことを「遊食」といい、長崎特有の「おもてなし文化」の源流とも呼べる。



花街丸山随一の妓楼「引田屋」の後身
史跡料亭 花月


長崎検番の誕生から現在へ

明治5年(1872)遊女解放令で新たな公娼制度がはじまり、料亭の台頭で芸子衆を中心とした花街文化が花開きはじめ、芸妓衆が検番組織を確立するようになり、昭和初期には長崎市内の5つの花街に7つの検番が作られていた。しかし、戦後、花街は衰退。芸子数は約100人程度に。検番も丸山南検番と長崎町検番だけとなったことを機に、両検番は昭和24年(1949)に合併し「長崎芸能会」を発足。長崎では戦後「芸妓置屋制度」は廃止されており、この株式会社も在籍芸子のみが株式を所有できる制度だった。当初は長崎芸能会と称していたが、昭和52年(1977)に「長崎検番」と改称し、今に至っている。現在は、若手6名を含め、19人の芸子衆が在籍している。

このところ長崎検番に、若い女性の芸者志望者や三味線、太鼓などの囃子(はやし)方である地方(じかた)さんが増えてきて、丸山は活気が出てきている。長崎の粋(すい)な遊び、見送りは「送り三味線」。ひとたび味わうと、その魅力にハマる人も多い。かつての丸山風情を楽しむだけでなく、ぜひ、一度は粋な遊びに興じてみてはいかがだろう。


今、丸山を歩いて気づくこと。
祟福寺前から電車通りに突き当たったところに丸山に抜ける28段の階段がある。この坂は、「オランダ行き」の遊女が出島に向かうとき、丸山の表門を通らずこの階段を下だり、小舟に乗って出島に向かっていたため名付けられたのだという。また、幕末、丸山の上手に西洋料理店の福屋ができ、居留地に住む多くの外国人が通った坂道、という説もある。
いずれもこの静かな佇(たたず)まいが広がる町並みにふさわしく、当時の情景が目に浮かぶような仮説だ。

 

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