たとえ日帰りの仕事でも、せっかく長崎に来られたからにはこの町をたっぷり満喫していただきたい!というのが、長崎人のウェルカム精神! そこでこの度私どもがご案内するのが、出張で来られた方々でも実践可能な3つのプチ観光プラン。


ズバリ!今回のテーマは

「仕事キッチリ!観光バッチリ!長崎最速観光」 なのだ



さて、今回ご用意したプランは40分、80分、120分で巡る3つの最速観光コース。働く人々の発着点、長崎の玄関口である長崎駅前付近や企業も多く集まる官公庁付近。そして車で長崎入りした方におすすめのドライブコースだ。持ち時間は人それぞれだろうから、全てをじっくりとはいかないだろうという推測のもと、コースに共通の時代背景や人物、つまり鍵となるものを定めてみた。それは “長崎で強い意志を貫いた人物”や“長崎でいい仕事をした人物”。もしかしたら長崎の歴史上の人物の偉業にビジネスのヒントが隠されているかも!? ちょっとの時間で長崎を知る、ちょっとの時間をフル活用!働きビトのためのプチ観光!あなたならどのコースを選ぶ?


1.時間を気にせず発着点でプチ観光
長崎駅周辺・日本二十六聖人コース




ルート長崎駅前→(4分)→本蓮寺→(3分)→日本二十六聖人殉教地→(1分)→日本二十六聖人記念館→(1分)→聖フィリッポ西坂教会
(見学時間を含め最短40分)

【地図はこちら】


このコースのキーワードはキリシタン時代の名残と殉教者! 約600名のキリシタンが殉教したという哀史が残る長崎。強い意志をもって信仰を貫き殉教していった人々ゆかりの地を巡ってみよう。
働きビトへの教訓〈自分の意志を貫く信念を持とう!〉

まずは長崎駅前の高架広場を渡り、正面の駅前商店街方面へと入っていこう!


駅前商店街


中華料理店

この小さな商店街の中には、長崎名物のちゃんぽん皿うどんが味わえる中華料理店や、新鮮な長崎自慢の海の幸が楽しめる居酒屋などが軒を連ねている。一つ目の十字路に出るとスーパーを左手に見ながら進みさらに坂段を上ろう。2つめの十字路に出ると左側に長く延びた石段が見える。

ここは聖林山本蓮寺という日蓮宗の寺。まずは、入口にある2つの石碑に注目してみよう。
ひとつは“サン・ラザロ病院 サン・ジョアン・バウチスタ教会跡”とある。本蓮寺が創建されたのは元和6年(1620)。その頃の時代背景はというと、イエズス領となりキリシタンの町として栄えた長崎の町が、幕府が発布したキリシタン禁止令により一変。次々に教会が破壊され、宣教師は追放、潜伏した宣教師や信徒が捕らえられては殉教するというものだった。つまり本蓮寺が建つ以前、この場所には天正19年(1591)に入港したポルトガル船長ベレイラの寄附によって建てられたハンセン病のためのサン・ラザロ病院があり、この病院の傍らには病院附属のサン・ジョアン・バウチスタ教会があったのだ。
そしてもうひとつの石碑には“勝海舟寓居の地”とある。時代は黒船来航後の幕末。オランダ人を講師に迎えた長崎海軍伝習所に入門した勝海舟が本蓮寺境内の太乗院に4年間身を寄せていたのだ。


バウチスタ教会跡碑


勝海舟寓居の地

それでは本蓮寺の長い石段を上り、本堂が見えてきたところで一度振り返ってみよう。今は絶景とは呼べないが、昔は長崎市最西端の野母崎半島をも望む景勝地だったといわれている。驚くことに先程の石段の場所まで海だったのだ!

また、残念ながら原爆で焼失してしまったが、この寺はかつて広大な敷地を誇り、長崎三大寺に名を連ねていた。そして、本堂右側の庭園内には教会時代の名残が現在も残されている。それは南蛮井戸と呼ばれるキリシタン寺院時代に掘られた井戸跡。寺の下まで海だったため、一説によると長崎港に出る抜け穴として掘られたともいわれている。入口に鍵がかけられているので、見学の際は寺務所へ一言声をかけるようにしよう!


南蛮井戸

先程の石碑の場所まで戻り、右手、さらに軽い傾斜となった道を進んで行こう。

ここが、26人の宣教師と日本人信徒が殉教していった西坂の丘、日本二十六聖人殉教地(県指定史跡)だ。この地も本蓮寺と同様、長崎港を正面に見下ろす絶景地。今もわずかに港が見え、ベンチに腰かけその景色と静けさを楽しんでいる人をよく見かける。この丘はローマ教皇・ピオ十二世が指定したカトリック教徒の公式巡礼地。70年の間、実に約600名ものキリシタン達がこの丘で磔にされ殉教した。二十六聖人はこの悲劇の最初の殉教者達だった。


日本二十六聖人殉教地

この地のシンボルは列聖100年を記念し建立された二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込記念碑。長崎港に向かって建つそのレリーフは、6名の宣教師と20名の日本人信徒、十字架に架けられた26名の最期の瞬間を描いている。


ブロンズ像嵌込記念碑
よく見るとその中に小さな少年が3人いる。
向かって右から9番目が最年少12歳のルドビコ茨木。「わたしの十字架はどれ?」と尋ね、背丈に合わせて準備されていた自分の十字架のもとに走り寄ったといわれ、十字架の上では縛られた体と指先を動かし「パライソ(天国)、イエス、マリア」といって喜びを表したという。
その隣は長崎出身の聖アントニオ13歳。西坂の丘で涙を流し出迎えた両親に、微笑みながら「泣かないで、自分は天国に行くのだから」と慰め、隣にいるペトロ・バプチスタ神父に「神父様、歌いましょう」といい、賛美歌を歌う中槍で刺され殉教した。
そして、右から20番目が父のミゲル小崎と共に殉教した聖トマス小崎14歳。「心配しないように、弟たちをお願いします」と母に書いた手紙を父ミゲル小崎に託したが、京都に届けることができず、ミゲルはこれを懐にもったまま殉教。手紙は懐で血に染まっていたという。


聖ルドビコ茨木と聖アントニオ


聖トマス小崎

このレリーフが建立された昭和37年(1962)、隣接する日本二十六聖人記念館聖フィリッポ西坂教会も建てられた。レリーフ裏手にひっそりと建つこの記念館には、聖フランシスコ・ザビエルの渡来から明治時代までの貴重な資料を展示している。そこで見落としてほしくないのは、レリーフ裏の「長崎への道」だ。捕らえられ、京都から長崎に到着するまで歩き続けた二十六聖人の苦しい旅と、聖書で特別の果物とされる葡萄が26個、十字架上で神に命を捧げた26名の犠牲として表現されている。
ナガジン!ミュージアム探検隊「日本二十六聖人記念館」参照


日本二十六聖人記念館


長崎への道

二十六聖人の一人、メキシコ人聖フィリッポ・デヘススに捧げた聖フィリッポ西坂教会は、力強く天にそびえ立つ双塔がとっても印象的。日本のカトリック系の人々が中心となって建てた教会で、壁、塔に埋め込まれている焼き物は、京都から長崎までの道沿いで作られた焼物で、二十六聖人が歩いた道のりを表している。
設計は日本二十六聖人記念館同様今井兼次氏によるもの。彼は昭和の初め頃、スペインの有名な建築家アントニオ・ガウディを日本に紹介した有名な人物。自身がカトリック信徒であったこともあり、信仰と建築が一体となった中世カトリックの世界を実践し続けたガウディの創作方法に心底共鳴した今井氏は、この聖堂にガウディのエッセンスを盛り込んだのだ。
双塔の一方は、殉教者の喜びに、もう一方は地上の人々の喜びが呼応する「天の門」を意味しているのだという。建築をもって殉教者の心、キリスト教の精神が表現された、建築的にも評価が高い建造物なのだ。聖堂内には赤に青、様々な色の陽の光があふれ、心を優しく包んでくれる温かな空間が広がっている。

双塔
ナガジン!「祈りの道筋・寺院と教会が立ち並ぶ風景」参照


●足をのばして…中町教会●
駅前商店街から徒歩5分の場所には、白亜の外観が美しいカトリック中町教会がある。この教会は、キリシタン迫害が激しかった寛永10年〜14年(1633〜1637)に西坂の丘で殉教した聖トマス小西と15殉教者に捧げられた教会。聖堂横の庭には彼らの碑がある。聖堂内の扉に配された10枚の美しいステンドグラスと、祭壇中央に安置されたフランシスコ・ザビエルが信仰の原点とした“ほほえみの十字架”のレプリカは必見だ。

カトリック中町教会公式サイト http://nakamachi.sakura.ne.jp/
ナガジン!「祈りの道筋・寺院と教会が立ち並ぶ風景」参照


〈1/3頁〉
【次の頁へ】


【もどる】