2.仕事の合間合間にプチ観光!?
今も昔も官公庁・長崎奉行コース



ルート長崎県庁→(5分)→大音寺坂→(12分)→勝山町遺跡→(1分)→長崎会所跡→(1分)→長崎歴史文化博物館→(6分)→東照宮→(5分)→諏訪神社→(5分)→松森神社
(見学時間を含め最短80分)

【地図はこちら】


このコースのキーパーソンは牛込忠左衛門! 実に121人もの人物が着任した長崎奉行の中でも“名奉行”として後世に名を残している人物だ。
ここでは、彼が長崎奉行として活躍していた頃の長崎を、その功績を振り返りながら巡ってみよう。
働きビトへの教訓〈先を見通し、柔軟さを持とう!〉

ここでは長崎県庁を起点にしよう! この周辺は長崎が開港した元亀元年(1570)に最初に造られた6町があるエリア。現在の長崎県庁の地には、南蛮貿易時代には岬の教会と呼ばれたサン・パウロ教会や被昇天のマリア教会、そしてイエズス会本部、江戸時代には長崎奉行所西役所が置かれていた。つまり長崎の成り立ち以来、常に中心であり続けているエリアなのだ。長崎奉行として牛込忠左衛門が幕府より駐在させられたのは寛文11年〜天和元年(1671〜1681)の10年間。忠左衛門が着任した当時、長崎奉行所は本博多町(現万才町)の長崎奉行所と外浦町(現長崎県庁)の長崎奉行所西役所との2つ体制だった。しかし、場所が近いということから忠左衛門は本博多町を廃し、延宝元年(1673)、長崎奉行所東役所を立山に設け、西役所と東役所の2つ体制にした。


当時の長崎の町の面影は残念ながら今はほとんど残っていないのだが、ある通りを歩くと江戸時代の長崎を彷彿とさせる光景に出会うことができる。それは、県庁坂の福岡銀行下から長崎市役所別館の裏へと続く通り。ここの石垣に注目だ! これは江戸時代の名残で、この辺りの地形や当時の建物の様子を思い浮かべる手掛かりが隠されている。実はこの石垣、開港当時に町となった6町と江戸中期の町の配置をなぞるかのように建造されているのだ。



長崎県庁

しばらく進むと左手に大音寺坂と呼ばれる石段がある。この坂は別名“けんか坂”。そのいわれは元禄13年(1700)に起きた長崎版忠臣蔵「深堀義士伝」。事の顛末はこうだ。この坂で深堀藩士2名が町年寄・高木彦右衛門の仲間惣内とすれ違い揉め事となった。深堀藩士は武士の面目にかけて翌日高木家へ討ち入り、高木彦右衛門など多数の首をあげた。この出来事は1年後の赤穂浪士討ち入りの参考にされたと伝えられている。

江戸時代の石垣

大音寺坂

さて、ひたすら石垣ストリートを進むと左手に昔、行商の人が背負っていた荷物下ろして休んだことに由来する休石、少し進むと右手に出雲大社長崎分院が見えてくる。そこを過ぎ、石垣が終わる少し手前で、左へ延びた坂道を上り国道34号線へ出よう。昔の地形を思わせるこう配。「今来た道はかつて海で、今まさに長い岬であった陸に上がったのだ!」などと考えながら歩くと面白い! 

右手にある建物が長崎市役所別館。南蛮貿易時代にはサン・フランシスコ教会(修道院)があったが、その後、キリスト教禁教時代には宣教師や信者達が入れられたクルス町牢が建てられた。多くの殉教者達はこの地から前ページで紹介した西坂の丘へと引き連れられていったという。

ここから歩道橋を渡り勝山町遺跡地に建つ桜町小学校へと向かおう。この地も南蛮貿易時代にはサント・ドミンゴ教会だった場所。とても小学校とは思えない校門の佇まいが、国道を走る他都市の人々の目を点にさせるという噂もあるが、校門がそうなったのはここが江戸時代、代々末次平蔵を名乗った長崎代官末次家の邸宅だった由縁。初代・末次平蔵は南蛮貿易で財を成した貿易商人であると共にキリシタンだったが、代官職に就くと棄教しキリシタン弾圧を行った人物。延宝4年(1676)、その末次家4代平蔵茂朝らの密貿易が発覚。奉行の忠左衛門はこれを処罰し、この地も没収。町年寄・高木作右衛門に与えた。現在、校門を左に折れた裏手にはサント・ドミンゴ教会跡資料館が併設され、教会時代から末次家時代、400余年に渡るこの地の歴史資料や遺物が展示されている。


■サント・ドミンゴ教会跡資料館■
開館 9:00〜17:00
休館 月曜(祝日の場合は開館)、12月29日〜1月3日
入館料 無料
駐車場 なし
問い合わせ 095(829)4340
ナガジン! 「遺物から江戸時代の長崎が見えてくる! 〜市役所通り」参照

桜町小学校校門


サント・ドミンゴ教会跡

この資料館脇の路地は、はじめて石畳が敷かれたといわれる通り(現在の八百屋町通り)。南蛮貿易時代の神父書簡に慶長6年(1601)、キリシタン墓地へ通る道としてここに石畳が敷かれたという記述が残っていて、それが長崎に石畳が敷かれたという最初の記録なのだという。

この道を通り抜け、出た道を左へ進み道路さらに進むと角に長崎会所跡という碑がある。


八百屋町通り


長崎会所跡

ここは、長崎貿易の上納金を幕府の重要な財源とするために、元禄11年(1698)に幕府が設立した海外貿易の事務を主管とする役所で、長崎奉行監督のもと長崎貿易を独占していた商人団の拠点。これが設立されたのは、忠左衛門が駐在以後のことだが、彼の功績が後の貿易手法に大きく影響を及ぼした。忠左衛門が駐在した時期の長崎の町は、出島と唐人屋敷での独占貿易で大いに潤い、徳川幕府に莫大な利益をもたらしていた。しかし、唐蘭貿易の定則がなかったため、銀貨の海外流出が激しく、物価の変動が大きくなったため、忠左衛門は寛文12年(1672)、長崎貿易の柱をそれまでの自由貿易から市法貨物仕法に変えたのだ。これによってそれまで外国商人に握られていた貿易の主導を日本側に取り戻した。実はこの前年、蘭通詞・唐通事に命じ、外国貿易品の出所や仕入価格などを密かに調査させていた。そしてその調査報告は、その後の市法商法実施後の奉行所の外国商品価格決定時の重要資料となったという。忠左衛門が唐蘭貨物仕法売買の法を制定したことによって、後に、この官営貿易での関税にあたる利益はその3分の1が地主などに与える“箇所銀”借地人に与える“かまど銀”の名前で市民に公平に分配される、という他の地方の人が知ったらそれはびっくりするような制度が設けられることとなった。それも年に2回。この制度、つまり簡単にいえばボーナス! 150年間も続いたこんな時代、今では考えられないからこそ興味深い!

さて、そんな長崎の海外交流史をテーマにした博物館が長崎会所跡正面の長崎歴史文化博物館。江戸時代、忠左衛門の判断でここに長崎奉行東役所(立山役所)が置かれた場所にまるで、江戸時代にタイムスリップしたかのような佇まいでそびえ建っている。ちなみにここも山のサンタ・マリア教会跡地。長崎の海外交流史を物語る数々の資料を、IT技術を駆使しした分かりやすさに楽しさをプラスした展示方法で見せる博物館! じっくり見ていくと1日あっても足りないが、今回は博物館内に一部復元された長崎奉行所立山役所(東役所)のみを足早に見学してみよう。テレビや映画で馴染み深い“お白洲”や、貿易品を長崎奉行が検分した“大改め”が再現されるなど、とても興味深いものとなっている。ちなみに入口の階段は奉行所時代の石段を再利用したものだ。

長崎歴史文化博物館■
開館 8:30〜19:00
休館 第3火曜日
    (ただし、祝日の場合は翌日休館)
入館料 600円
駐車場 あり(有料)
問い合わせ 095(818)8366


長崎歴史文化博物館公式サイト http://www.nmhc.jp/
ナガジン! 長崎歴史文化博物館・第一章「甦った長崎奉行所立山役所」参照
ナガジン! 長崎歴史文化博物館・第二章「華麗なる長崎海外交流史を旅する」参照

さて、2階イベント広場の方を抜け出ると、左手上方に長崎県立図書館がある。実はここ、正保2年(1645)に創建された安禅寺という寺院の参道だ。長崎公園内には今も安禅寺時代の石門が建っている(文政2年(1819)建立)。そしてそのまた延長線上、安禅寺上段に徳川家霊廟東照宮が祀られている。この東照宮建立(寛文13年(1673))は忠左衛門の命によるもの。東叡山から厳有院(4代将軍家綱)の位牌を賜った事を機にして、以降歴代将軍の位牌を安置する事となったという。それゆえに、先程の安禅寺の石門には葵の御紋が刻まれている。長崎公園を横切れば、そこは長崎くんちの舞台である諏訪神社。忠左衛門は寛文の大火(寛文3年/1663)を受け行われていた町の再整備過程において、町の大きさを均一化し、諏訪神社の神事・長崎くんちの供奉を受け持つ踊町や神輿守町の役割を整理。長崎市街を77ヶ町(丸山、寄合、出島の特別町を合わせたら80ヶ町)として、踊町を毎年11ヶ町の7廻りにした。町数は減ったが、今も7年廻りで踊町が巡ってくるのは、忠左衛門の思惑が今も継承されていることになる。今となっては、長崎の町に祭りが多いこと、そしてその祭りにいずれも金を投じる、という習わしは、町や貿易の仕法を整備したことによって、市民の団結力を強め生活を豊かにした忠左衛門の働きが大きかったといえそうだ。
諏訪神社の参道を下り、旧一の鳥居から左へかつて流鏑馬場であった松の森通りを進むと、突き当たりに松森神社がある。境内にある各社は、延宝8年(1680)忠左衛門の喜捨によって改築されたもので、その際、松森神社と命名したという。今も境内には忠左衛門が落成大祭で詠み奉納したという「涼しさや 御影と頼む 松の森」の句碑が残されている。

東照宮


牛込忠左衛門句碑
諏訪神社公式サイト http://www.osuwasan.jp/
ナガジン!「長崎神巡り〜日本の神様に初詣で〜」参照
ナガジン!シャッターチャンス@長崎「諏訪神社」参照
ナガジン!「シーボルトも歩いた道」参照


●足をのばして…聖福寺●
長崎歴史文化博物館から徒歩3分の場所には、延宝5年(1677)、忠左衛門が僧・鉄心に要請し、鉄心が母方の唐通事・西村家の財力をもって創建した黄檗宗の万寿山聖福寺がある。ここは長崎唐四寺のひとつで、さだまさし原作の映画『解夏』の舞台にもなった静寂に包まれたとても雰囲気のいい寺院。仕事での疲れを癒しに立ち寄ってはいかかだろうか?


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