閑静な住宅地の中に点在する寺、天満宮、神社。
ソロソロと流れる鳴滝川の川音が聞こえる
鳴滝、桜馬場、新大工界隈は長崎で最も古い歴史ある町。
今回は、江戸時代に長崎旧街道を通り訪れた旅人たちや
シーボルトも歩いたであろうこの界隈を案内しよう!


詳細情報「シーボルト早分かり講座」へ



シーボルトが普段から歩いていただろう道筋は、現在「シーボルト通り」と名付けられ、現在も人々に親しまれている。
長崎街道の起点あり、シーボルトが開いた鳴滝塾跡あり、はたまたシーボルト滞在以前から古い歴史も残るこの鳴滝、桜馬場、新大工界隈。
今回は電車の発着点・蛍茶屋から出発し、諏訪神社方面までぶらり歩いてみるとしよう。

出発地点・蛍茶屋電停へのアクセス
●JR長崎駅からのアクセス

バス /

バス停長崎駅前東口から県営バス・網場、東長崎方面行きに乗車し、バス停中川町で下車、徒歩3分。

車 /

長崎駅前から約15分。


長崎の顔でもあるチンチン電車の行く先に「蛍茶屋」のプレートを目にした人も少なくないと思うが、現在3個所ある市電発着点の1つである蛍茶屋。
その昔、昭和初期までは「蛍茶屋」という名の料亭があり、明治30年頃までは蛍の乱舞が見られたという。
蛍茶屋が出発地点。
まずは電車通りを左手に、裏通りへ入っていこう。


古橋(中川橋・なかごばし)
この石橋は江戸時代の長崎の玄関口だった見事な造りのアーチ型石橋。
古橋を渡り、鳴滝川上流へと緩やかな坂を上ろう。
しばらく上るとシーボルト通りを示す石碑シーボルト宅跡、記念館への案内版が設置された橋の上に到着。


ここから川岸へ下ることができるので、天気がよくて足場が良ければぜひ下りてみよう。
そこに「鳴滝」の文字が刻まれた巨岩、通称・鳴滝岩があるので注目!
もともとこの辺りは「平堰(ひらいで)」と呼ばれていて、中流に水の落ちる所があった。

延宝年間(1673〜1680年)、長崎奉行・牛込忠左衛門が京都洛北の鳴滝にちなんで命名したと伝えられていて、川の巨岩に「鳴滝」の2文字を刻んだのだとか。

さて、ここから緩やかな坂を上るとシーボルトが鳴滝塾を開いたシーボルト宅跡へ辿り着く。

正面には晩年のシーボルトと思われる胸像が立ち、迎え入れてくれる。

前述詳細情報の「シーボルト早分かり講座」にも出てきたように、シーボルトの名声を聞き全国いたる所から集まってきた門弟たちは高野長英など約50名。
この場所で、医学、薬学、動植物学、物理学などなど、科学全般にわたって学び、日本の近代学問の基礎を築いたのだ。

裏山の緑、石垣、井戸、そして6月には雨にうたれてなお美しく咲く、シーボルトが愛したアジサイの花。
当時は鳴滝川の水音が聞こえてくる、静かで美しい場所であったに違いない。
今でもその面影が感じられる静かでいい場所だ。

この宅跡に隣接して立つのがシーボルトに関する数々の資料や愛用品などを展示したシーボルト記念館
建物はオランダにある彼の旧宅、玄関は祖父カール・カスパル宅を復元したものだとか。
閑静な住宅地の中に突如あられる洋館。
いかにも長崎らしい、これぞ長崎の町歩きの醍醐味といえるだろう。

今来た道を戻ると桜馬場中学校の正門前に、町内の中心にあたる伝八稲荷神社がある。 ここは安全息災を計り、火災よけの神様として町民の厚い信仰を受けている神社。
昔この辺りは長崎街道の休憩所に当り、休み茶屋がずらりと並び、旅人は床上に腰かけ、名物の「きびもち」を頬張っていたとか。
通りには饅頭を蒸す煙りが立ち上る饅頭屋がある。


桜馬場中学校の門を通り過ぎた石垣の角に、シーボルト通りと春徳寺通りが交差する地点がある。
そこには休み石もあり、この界隈、今歩いている通りを詳しく案内する案内版があるので確認するといい。

この辺りが開港当時の長崎の中心地。
その頃長崎を治めていたのが大村純忠(すみただ)の重臣であり、純忠の娘婿にあたる長崎甚左衛門純景(すみかげ)で、この桜馬場中学校の場所に居館を構えていた。
この辺りは城下町だったというわけだ。

さぁ、この春徳寺通りの少し急な坂を上り春徳寺へと向かおう。

まず突き当たりにある大理石の碑が目につくことだろう。
「1567年、ルイス・デ・アルメイダ この地に渡来し布教す」と刻まれたこの碑は、すでに洗礼を受けていた長崎甚左衛門純景の元に派遣され、長崎ではじめて布教をはじめたイエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダの渡来を記念して建てられた記念碑。

現在春徳寺が立つ場所は、長崎甚左衛門純景が居館近くの菩提寺にしていた寺をイエズス会に寄進し、その場所に建てられた長崎で最初の教会トードス・オス・サントス教会跡である。
寺院内にこの教会の面影を残すものとしては、寺の門前にある大クスと、墓地に通じる裏門の横にある「キリシタン井戸」と呼ばれる古井戸、そしてその脇に置かれた加工された大理石の一枚石だけだとか。
この大理石は昭和初年に本堂裏改修工事の際に床下から発掘されたもので、祭壇に使ったものではないかといわれている。

大理石上の観音様は、「教会の遺材と知らずに腰かけてしまう人がいるので関係ないんですが観音様をおさめているんです……」と住職さんが話してくれた。
春徳寺は坐禅を行なうことが多いので「キリシタン井戸」の場所へは、あらかじめ予約を入れてから訪ねて欲しいとのことだった。

さてこの春徳寺は、他にも見どころがたくさんある。
なかでもぜひ足を運んで欲しいのが県指定の有形文化財に指定されている東海家の墓地だ。
東海家は10代にわたって唐通事を勤めた家柄だ。 墓は5段から成り、完成まで数年を要したというだけあって、とにかく壮大。

広大な敷地に全部で29基の墓碑があり、獅子頭を施した石柱まである。
この獅子頭には、金の目玉がはめこんであったそうで、夕陽を受けピカピカ光り、長崎に入港する唐船蘭船が入港の目印にしていたと伝えられているとか。
その目玉、いつのまにか盗まれたとかで現在はない。


さてさて桜馬場町中学校があるシーボルト通りへ戻ろう。
「威福寺に近づくと行列は止まり、われわれは同行者と共に広間にはいり、天の守り神すなわち天神の加護を祈り……」
これは、シーボルトの「江戸参府紀行」の行きの光景。
威福寺とあるのは現在の桜馬場天満宮のことだ。
江戸へ向かう際は、別れの宴と旅支度を改め、帰途の際はここで旅装を解く場所という。
そんな重要な舞台だったとはとても思えない、小さな社殿があるだけなのだが……。
ビックリなのは、現在、鳥居がビルとビルの間に挟まれ、パズルのように一体化していること。ん〜む、不思議な光景。


通りの角に「長崎街道ここにはじまる」と記された長崎街道起点の石碑が立っている。
しかし、一説によると起点はもう少し諏訪神社よりだったのではないかといわれている。


車道を隔てて商店や市場で賑わう新大工商店街へ。
もちろんここもシーボルト通りの延長。
足下には長崎市の市花であり、シーボルトが愛した花でもあるアジサイが、側溝蓋に描かれている。
商店街には一時期桜馬場天満宮周辺に移されたこともあってかその名も天満市場ほか、魚の干物や花、とれたて野菜などを通りで売る行商のおばさん達の威勢のいい声が飛び交い、会話を楽しみながらの買物風景が見られる。

通りには明治30年代創業の店構えからして趣きある酢の専門店がある。
今では市内で唯一の酢醸造元らしい。
レンガ造りの壁にはカメの絵と「や」の文字。標識(意匠)が施されている。
昔はこれで酢屋だという印だったのかもしれない。
さて、シーボルト通りもこの商店街で終了。

横断歩道を渡り、少し足を延ばして諏訪神社方面へと歩いてみよう。
秋の大祭・長崎くんちの舞台である諏訪神社
この神社から続く諏訪公園には長崎開港時の領主、長崎甚左衛門純景像 ほか、ニホンザルや孔雀などがいて長崎っ子に親しまれている「どうぶつひろば」などがある。
公園を包む諏訪の森には樹齢700〜800年の大クスが見られ、きれいに整備された山道を散策するのもおすすめ。
さらに諏訪公園を長崎市立図書館へ下るとすぐに、日本写真の祖・上野彦馬の胸像、また、『長崎ぶらぶら節』で全国的にも広く知られることになった長崎学の第一人者・古賀十二郎を賛える記念碑などもある。


<上野彦馬胸像>

<古賀十二郎記念碑>

下から4つめの鳥居の左側には郷土出身の文学者の作品や遺品などを展示する諏訪の杜文学館があり、その右方向、突き当たりが長崎で一番古い松森神社
菅原道真公を祀っていて2月には梅の花が咲き誇る美しい神社だ。


天正16年(1588)、長崎は天領となり長崎奉行所が設置された。
当時の長崎は今の東京同様、いやそれ以上の文化の発信地であり、文化交流の盛んな場所だったということは御承知の通り。
しかし人々はどんな気持ちで長崎に入り、どんな事を学び、遊び、交流していたのだろう?
城下町として栄えた町に商店街があり、神社、天満宮、寺、そしてその風情を好んで勉学の地としたシーボルトの宅跡がある。
この界隈を歩くと、その様子が、人々の心情が多少なりとも感じ取れるかもしれない。
長崎旧街道を通り、長崎に訪れた旅人の追体験をしてみてませんか。


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