花十字紋瓦/サント・ドミンゴ教会跡資料館 

江戸時代の長崎はいったいどんなものだったのだろう? 
すでに発掘調査を終え、そこにどんな建物が建っていたのか広く公開されていたり現存する建物が残っていたりするものは皆さんご承知のことだろうが、発掘された遺物から推測できる当時の人々の暮らしぶりについては、まだまだ未知の世界。
今回は、現在官公庁関係を含めて近代的なビルが建ち並ぶエリア、長崎市役所前の国道34号線周辺沿いにある、万才町遺跡、興善町遺跡、勝山町遺跡から発掘された遺物を通して、江戸時代の長崎とそこに暮らした人々に注目してみたい。


ズバリ!今回のテーマは

「江戸時代の長崎を遺物からイメージしてみよう!」なのだ



まずは、長崎の町の成り立ちと歴史を知ろう!

【開港以前】山地に囲まれ平地が少ない長崎の町は溺れ谷を利用して発展してきた港町で、戦国時代末期までは深江浦(瓊浦:たまのうら)と呼ばれる寒村。現在の諏訪神社辺りから海中に向かって長い岬が突き出していていた。その突端が現在の長崎県庁辺り。かつてここは深い森であったため森崎と呼ばれていた。長崎の地名は「長い岬」からという説もあるように、開港時の長崎は、森崎という深い木立に包まれたこの岬を中心に栄えていったのだ。

【南蛮貿易時代】元亀元年(1570)の開港を皮切りに、すでに平戸、横瀬浦、福田浦(福田)、口之津(島原)に入港していたポルトガル船が来航。翌年から南蛮貿易がはじまった。同年、当時の長崎を治めていた領主、日本初のキリシタン大名・大村純忠はこの森崎の地の町建てを行ない、平戸、外浦(ほかうら)、横瀬浦、島原、大村、分知(文知)という6つの町が誕生した。だが純忠は、南蛮貿易の利益を独占するためにイエズス会にこの6ヶ町と千々石湾に面した茂木を寄進する。以降、長崎はキリスト教布教の拠点として多くの宣教師が行き交い、市中には次々に南蛮寺(教会)が創建されることとなった。しかし、天正15年(1587)、豊臣秀吉は突然バテレン追放令を発し、長崎、茂木、浦上の地を直轄領とし、長崎に奉行・代官・町年寄を置き、町の行政を司るようになる。

【江戸時代】江戸時代に入ると徳川幕府はキリシタン弾圧を強化し、鎖国令によって貿易も制限した。この時期市中にあった数々の南蛮寺が破壊され、跡地に寺社などが建てられた。そして寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航が禁じられると、寛永18年(1641)、平戸にあったオランダ商館が出島に移され、216年間、唯一世界に開かれた窓口として重要な役割を果たすことになる。出島に商館医として来航し、医学はもちろん天文学や植物学など幅広い知識で日本に多大な影響を与えたケンペル、ツンベルグ、シーボルト。彼らによってヨーロッパの近代科学が流入してきた長崎の町には、吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)や志筑忠雄(しづきただお)など優れた先覚者や洋学者が現れる。特にシーボルトが開いた鳴滝塾には全国各地から門弟達が集まってきた。やがてこのように往来する人は学問だけにとどまらず、西洋と中国の文化が混在し、異国情緒漂う長崎の町には画家や作家など、有名無名数々の芸術家も憧れを抱いて多く訪れるようになるのだった。

それでは、上記の長崎の町の成り立ちと歴史を踏まえた上で、万才町遺跡、興善町遺跡、勝山町遺跡から出土した遺物に触れていこう。


万才町遺跡 江戸時代、町政を行なった町年寄の屋敷!

万才町遺跡は、代々町年寄を受け継ぐ高島家屋敷(高島秋帆本邸)跡をいう。現在、長崎家庭裁判所が建つこの場所は、元亀2年(1571)の町建ての際に造成された6ヶ町のひとつの旧大村町。この町名は、造成した日本初のキリシタン大名・大村純忠の名にちなんだものだ。
さて、秀吉の命で天領となり長崎の町を長崎奉行が支配した際、奉行の下で行政を司ったのが町年寄だ。当初、町年寄は4人制。現在の地方裁判所には高木家、向かいの地方検察庁には後藤家というように、6ヶ町内には高島家、高木家、町田家、後藤家の広大な敷地を持つ町年寄の屋敷があった。
高島家というと、一番世に知られているのは、幕末の有名な西洋砲術家、高島秋帆(しゅうはん)だろう。秋帆は高島家の11代にあたる。この秋帆のルーツを辿ってみよう。初祖は、秀吉が江州(現在の滋賀県)の小谷城を攻め落とした時に一家離散し翌年、天正2年(1574)に長崎に来た、高島八郎兵衛氏春(はちろべえうじはる/〜1633)だという。氏春は町建てされた、この旧大村町に居を構えた。氏春の子どもが、高島家の初代当主、高島四郎兵衛茂春(しろうべえしげはる/〜1622)で、彼は天正15年の天領となった際、高木了可(りょうか/〜1629)、後藤宗印(そういん/〜1627)、町田宗賀(そうが/〜1632)と共に頭人となり、地役人の制度ができてからは町年寄として活躍した。
さて、そんな高島家の屋敷跡からは、どんな遺物が発掘されたのだろう?

まず、前述の通り茂春の時代、6ヶ町はイエズス会領になっていた。実は茂春はゼロニモという洗礼名を持つキリシタンで、長崎の信者のリーダーだったという。その証拠に、この高島家からは、ロザリオに付けられていた錫製のクルスと、十字の四方の先端が花びらのように開き、花のように見えることから、花十字と呼ばれる紋が入った瓦(花十字紋瓦)が出土している。茂春が敬虔なキリシタンとして暮らしていたことが窺える貴重な遺物だ。


錫製のクルス 長さ3.2cm、幅1.5cm
/万才町遺跡 ※

また、高島家からは高価な色鍋島の破片も出土。これは、佐賀の鍋島藩が一般のものとは分けて作らせていたもので、各地の大名や公家家に対する贈答品に用いられていたものだそうだ。つまり高島家は長崎の町において、大名や公家と違わない地位と権力、財力を持ち合わせていたのだ。


色鍋島の破片/万才町遺跡  


破片と同じ色鍋島

もともと残されていた記録通り、高島家屋敷跡の発掘によって発見された基礎石は、とても広大で造りもとても堅固なものだったということが判明した。敷地内には井戸跡が11ケ所あり、火事に備えた地下室(むろ)も3ケ所あったそうだ。また、莫大な費用をかけたと推測される基礎に加え、外見も素晴らしいものだった。その様子は、出土した重ね4つ目といわれる家紋が入った軒瓦から推し量れる。広大な屋敷の屋根、もしくは塀の軒に家紋を入れたオーダーメイドの瓦を配する。この瓦は高島家の財力を象徴する遺物なのだ。


高島家の家紋が入った軒瓦 直径10.5cm
/万才町遺跡 ※
 
 ◆よもやま話◆いったいどうやって? 思わぬ遺物発見!

万才町、興善町の両遺跡からは、巨大な動物の骨が出土した。それはズバリ!鯨の骨。しかも驚くべきことに万才町の高島家と興善町の八尾家の庭から1頭の鯨の骨が半分ずつ。これは、町年寄の高島家と、乙名である八尾家が1頭の鯨をこのどちらかの庭へ運び、捌き、分けて食べたということを意味する物的証拠。彼らのとっても裕福な暮らしが垣間見られるエピソードだ。



鯨の骨/歴史民俗資料館 ※
 
 ◆万才町ゆかりの人物◆幕末の西洋砲術家 高島秋帆

高島秋帆(1798〜1865)は、この代々町年寄を世襲する高島家の代10代四郎兵衛茂紀(しろうべえしげのり/1772〜1836)の子として生まれ、出島や唐人屋敷付近の警備を受け持っていた父・四郎兵衛について10代の頃から出島に出入りし、化学に興味をもっていた。四郎兵衛は幕府が派遣した荻野流の増補新術の流れを汲んだ坂本孫之進から砲術を学び、後に荻野流の師範になったことから、秋帆も四郎兵衛に学び師範役となり町年寄になってからは、幕府の許可を得て外国の武器の輸入も行ない、個人的にかなりの武器を所持していたという。実際に大砲などを自分で造り他の藩へ売ることもあったとか。
秋帆のところには諸藩から砲術を学びに来る者も多く、約200人もの門弟がいたという。町年寄を継いだ翌年の天保9年(1838)、秋帆41歳の時、万才町(旧大村町)の本宅は全焼し現東小島の別邸に引っ越した。万才町遺跡から出土した秋帆の業績を物語る遺物として、モルチール砲という大砲に使用した弾の鋳型の一部がある。
モルチール砲弾の鋳型
高さ10cm、厚さ4cm/万才町遺跡 ※

※長崎市所蔵
 
 ●万才町遺跡はここで鑑賞!


高島家跡、長崎家庭裁判所1階ロビーにはわずかだが高島家時代の出土品が展示されている。なかなか入る機会が少ない場所だが散策ついでに覗いてみよう。

●長崎家庭裁判所
(万才町6-25 095-822-6151)
●8:30〜17:00
●土日祝日休
●入館無料


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