近代化とともに日本に導入された煉瓦造りの建造物。教会堂などの文化財クラスはもちろん、注意深く見てみると、街中には意外にも多く“幕末から明治の面影”である赤レンガが現存している。数々の赤レンガ遺構から見えてくる明治期の長崎に触れる。


ズバリ!今回のテーマは
「赤レンガが町を変えた明治期にトリップ!」なのだ




普通に道を歩いていると、今でも不意にレンガ塀が現れたりする。それも明治期に形成された外国人居留地周辺なら違和感もないが、居留地からは離れた市内全域で見られるレンガ塀。その不意な出会いによって感じるのは、この地をはじめ、日本中に文明開化の風が吹いた時代。そう!明治の薫り。現代的なレンガとはどこか違う、先人達が汗を流し築き上げた人々の歴史の痕跡とでもいうような、独特の趣きが赤レンガにはあるのだ。

長崎発祥って知っていた?
薄くて長〜いコンニャク煉瓦

さてさて、レンガに特別興味がある人じゃなくても、長崎に住んでいれば「コンニャク煉瓦」というワードを一度は聞いたことがあるんじゃないだろうか?
そのネーミングからイメージするように、このレンガ、薄くて長い扁平なのが最大の特徴。実は、明治維新前後の一時期に、長崎で生産された長崎特有のレンガだ。生産指導者は、オランダ海軍の機関方士官・ハルデスという人物。だから、別名はハルデス煉瓦ともいうのだとか。

何故当時、レンガが必要だったかといえば、後に三菱重工長崎造船所となる飽ノ浦の長崎鎔鉄所(後に製鉄所と改称)を建設するため。工場の煙突や、機密性を保つ塀を造るのに何万枚ものレンガを造らねばならなかったからだ。この建物の竣工は文久元年(1861)。残念ながら当時の建物は残っていない。安政4年(1857)に来崎したハルデスは、まず煉瓦の原料となる土を求め、近郊はもちろん、離島などもくまなく調査。ついに、煉瓦造りに適した土を長崎港口、現在は陸続きとなった、かつての香焼島で探し当てた。そしてさっそく、造船所の背後の岩瀬道の丘に2基の焼成窯を築き、ハルデス達の指導のもと日本の瓦職人達によって煉瓦が焼かれた。この2基の瓦焼き窯跡は、昭和25年頃までは、その形跡を残していたそうだ。

実は、煉瓦自体が日本で焼かれたのは、これより10年程前、嘉永年間(1848〜)。江川太郎左衛門という人が、伊豆の下田で大砲を鋳造したとき、反射炉用の耐火煉瓦を焼いたという史実が残っている。しかし、建築など一般の建造物に使う赤レンガは、この長崎の岩瀬道が最初だった。

通常6cmの厚さが4cmとなったコンニャク煉瓦。厚みを薄くしたのは、当時、焼成温度が高くできなかったためなど、諸説あるようだ。では、一見してコンニャク煉瓦とわかる、この薄手のレンガで造られた建造物は今も長崎に残っているのだろうか?
 

海風による風化が風格に!

小菅修船場巻揚機小屋
(小菅町/国指定史跡/※九州・山口の近代化産業遺産群)






明治元年(1868)、小菅の小さな入江に設けられたこの国内初の西洋式修船場は、日本最古の赤レンガ建造物。薩摩藩の小松帯刀、五代友厚らと、グラバーが協同で建設した、通称「そろばんドック」の巻揚小屋の外壁には、様々な時代のレンガが見られる。中でも、刻印があるもの、風化して角がなくなったものなどコンニャク煉瓦には、幕末の偉人が行き交った姿が浮かぶような、時の流れを偲ばせる風情が漂っている。





2008.1月ナガジン!特集『働きビトのプチ観光』参照



素敵な名前の焼却炉
聖福寺の惜字亭
(玉園町/市有形文化財)


 

「そろばんドック」よりも2年程古い建造年のコンニャク煉瓦が使用された小さな施設がある。聖福寺の惜字亭(せきじてい)だ。聖福寺は、最近ではもっぱら、いろは丸談判の場となった坂本龍馬ゆかりの地としてスポットを浴びている唐寺。惜字亭と呼ばれるこの施設は、経文や寺院内の不要になった文書類を焼却する、字を惜しむという何とも奥ゆかしい名前の炉。この炉口から内部を覗き込んでみると……天井付近に横積みされたコンニャク煉瓦を発見!



2002.7月ナガジン!特集『祈りの道筋・
寺院と教会が立ち並ぶ風景』参照




グラバーさんちのコンニャク煉瓦
旧グラバー住宅(台所・馬小屋前花壇の縁石)
(南山手町/国指定重要文化財/※九州・山口の近代化産業遺産群)


 

グラバー園内、旧グラバー住宅の台所にもコンニャク煉瓦を発見!グラバー邸の建造は文久3年(1863)で、日本で最も古い木造西洋風建築だが、当初は接客用の別邸だったとみられ、しだいに住居として増築を重ねるうち、明治の中頃、現在のような姿になった。増築を重ねるうちに、ここはコンニャク煉瓦で…などとなったのだろうか? 馬小屋側の花壇にもコンニャク煉瓦が使用されている。





2002.9月ナガジン!特集『グラバーが住んだ丘〜グラバー園・満足観光ナビ〜』参照



開国まもない日本と世界との通信手段
国際海底電線小ヶ倉陸揚庫
(小ヶ倉町)

デンマーク国の大北電信会社が、明治3年(1871)〜明治15年(1883)の間に、長崎〜上海間に2条、長崎〜ウラジオストック間に2条の長距離海底ケーブルを陸揚げして以来、約1世紀に渡って対外通信を行なった。この煉瓦造りの国際海底電線小ヶ倉陸揚庫は、以前は小高い丘の上にあったが、外港埋立計画でこの丘が削られたため、現位置に解体移築されたものなのだという。当時の通信機材などの一部は、内部に置かれ、その外壁には明治初期の時代を感じさせるコンニャク煉瓦が今もその存在を示している。



明治初期煉瓦造建造物の象徴

旧羅典神学校
(南山手町/国指定重要文化財)





大浦天主堂の門前、向かって右奥に建つ木造三階建てのこの建物は、キリスト教が解禁となり、日本人の聖職者を育成するためにプチジャン神父が明治8年(1875)に設立した神学校跡で、現在1階はキリシタン資料館として活用されている。一見すると、白壁と瓦屋根の日本的な建造物。しかし、扉や窓枠などにヨーロッパの建造物に似た風情を感じるのは、外海の開墾に尽力したド・ロ神父の設計施工である由縁。木造の壁にコンニャク煉瓦を積み、目地には天川漆喰(しっくい)、建築金物の使用など、西欧建築技術をふんだんに導入。日本初の木骨煉瓦造りで、煉瓦の上に漆喰塗りが施されているのだ。

2003.3月ナガジン!特集『国宝・大浦天主堂とキリシタンの歴史』参照

※ 九州・山口の近代化産業遺産群は、文化庁が選定し、ユネスコの世界遺産暫定リスト入りした世界遺産候補
 
 コラム●レンガ塀発見の旅!part.1

レンガ塀を求めて
居留地周辺をぐるり!

定番のオランダ坂(誠孝院の坂)横や孔子廟横のレンガ塀はもとより、南山手、東山手、大浦といった居留地エリア周辺である石橋界隈にも、数々のレンガ塀が……。石橋バス停裏の高台、駐車場、ドンの山の登り口、大浦国際墓地周辺などなど、左右上下、注意深く見ながら歩いていると、意外にも多くのレンガ塀の存在が確認できる。そして、元々、中国には磚(せん)というレンガの文化があったため、唐人屋敷跡にもレンガ塀が多く見られる。坂を上り下りしている中で出会う中国風の建物を囲うレンガ塀もまた独特の長崎風情。また、市民病院裏、出島バイパスの高架下にも新しいレンガ塀を発見! 実は、この塀、長崎独自のコンニャク煉瓦の文化にちなんで、バイパス開通時に造られたものなのだとか。たとえ新しい赤レンガでも、その風情を通して多くの人に長崎の異国情緒を感じてほしいものだ!

誠孝院の坂横

孔子廟横

唐人屋敷跡

駐車場


出島バイパスの高架下

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