長崎の南山手の丘にそびえ建つ、国宝・大浦天主堂。
風格漂うこの白亜の教会が建つに至るまでには、
凄まじいキリシタンの歴史があった。

 今回のナガジンではこの大浦天主堂が建てられるまでの長崎の
キリシタン史に触れながら国宝・大浦天主堂の魅力を発見してみたい。

ズバリ!今回のテーマは
「大浦天主堂が国宝たる由縁に迫る!」
なのだ




●建造物としての国宝・大浦天主堂
〜ゆかりの教会堂・日本二十六聖殉教者天主堂〜

国宝・大浦天主堂をはじめとした長崎県内に点在する教会堂を、主に建築的見地から検証した『長崎の教会堂』を執筆。
現在、県内で大きなうねりを見せつつある動き「長崎の教会堂群を世界遺産にする会」の会長でもある林教授のお話から、大浦天主堂が持つ価値、素晴らしさを再発見!
また、大浦天主堂と対面する位置にある日本二十六聖人記念聖堂についても解説いただいた。


長崎総合科学大学工学部建築学科
林 一馬 教授(工学博士)


林 一馬(はやし かずま)
●プロフィール●
1943年奈良県生まれ。長崎総合科学大学建築学科・同大学院環境計画学専攻教授。長崎県文化財保護審議会委員。長崎の教会堂群を世界遺産にする会会長ほか。
著書に『長崎の教会堂』ろうきんブックレット12・九州労金長崎県本部、『長崎県の近代文化遺産』(共著)長崎県教育委員会、『伊勢神宮・大嘗宮建築史論』中央公論美術出版など。


●建立の本来の意味を知ると大きな感動が胸をよぎる

国宝・大浦天主堂の本来の価値はあまり知られていません。
大浦天主堂という名称は通称で、本来の名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」
日本の長崎という地で26人が殉教したことは、ヨーロッパをはじめとした全世界でとても有名です。
幕末近くになって布教が再開され、文久元年(1862)、横浜の外国人居留地に開国後最初の教会堂・横浜天主堂(「聖心聖堂」)が建立されると、日本での再布教を念願していたローマ教皇庁は、聖地である長崎に26聖人に捧げる新しい聖堂を設立することを決意。
布教を再開し、できれば日本人信徒を再発見することを望みフューレ、プチジャンの両神父に入国を指令して大浦天主堂の建立が実現されました。

私が言う本来の価値とは、この大浦天主堂が1597年2月5日、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛された司祭、信徒らが処刑された殉教地である西坂の丘へ向かって建てられてた教会堂だということ。
そして、長い禁教の時代を経て潜伏していたキリシタンが名乗りをあげた世界宗教史の奇跡として知られる信徒発見の地であるということです。
この2点のことから、この天主堂そのものが、記念碑的価値を持っているんですね。

また、横浜天主堂が関東大震災で大破したため、もちろん、現存する最古の教会という価値も大きいです。
明治8年、12年に増改築を行ない、外部は拡大されましたが、内部は元治元年(1864)の創建時のものとほとんど変わっていません。
入口正面の扉は現在も残存していますし、左右の脇祭壇も変わっていないと思われます。
明治以前に建てられた建物として、非常に価値が高いもの、また完成度の高いものだと言えます。

これは、当初長崎に住む外国人向けに建てられた教会であることが大きいとも言えるでしょうね。
明治以降に建てられた教会は言わば日本人向けであり、さらに昭和の戦後になると、宗教性にしても建物にしても完成度が薄れたものになっているのが現状です。

長崎のキリシタンの歴史についてはこちら



●創建時の名残りを見つけて天主堂の細部に目を向けよう

現在の主祭壇にある「十字架のキリスト」像が描かれたステンドグラスの位置には、創建時フランスから寄贈されたオリジナルのステンドグラスがはめ込まれていました。
ということはここに窓があったということですね。
そうすると扉上の小窓は別にして、創建時の天主堂には側面に計24個の尖頭(せんとう)アーチ型の窓があり、正面玄関上のバラ窓とこの主祭壇の窓を加えて合計26個の窓があったことになるんです。
この26個の窓というのは、もしかすると26聖人の象徴ではなかったのでしょうか?
単なる偶然とは思えないし、26聖人に捧げる聖堂を建設するという最初の意志からすると考えられることですよね。

大浦天主堂が国宝である由縁は、我が国で現存する最古の教会堂だということです。
また、数多い幕末以降の洋風建造物の中で唯一の国宝であり、また国宝の中で最も建設年代が新しいという価値もあります。
しかし、大浦天主堂はあくまで「日本26聖殉教者」を記念する聖堂として建立されたものであり、信徒発見の奇跡が起こった場所だという歴史的背景を知った上で拝観すると、また違った本来の価値が見えてくるんじゃないでしょうか?



●ガウディのエッセンスが光る日本二十六聖人記念聖堂

殉教した26人が列聖、つまりキリストに続く偉い人として聖人となったのは1862年、殉教した1597年2月5日(慶長元年12月19日)から約250年後のことです。
殉教した司祭、信徒のことはヨーロッパで約250年間、大いなる奇跡としてヨーロッパで語り継がれていたんですね。
日本二十六聖人記念聖堂は、列聖100年を記念した昭和37年(1962)に記念館記念レリーフと共に日本のカトリック系の方々が中心となって西坂の丘に建てられました。
設計したのは早稲田大学教授でもあった建築家の今井兼次氏
彼は昭和の初め頃、スペインの有名な建築家・アントニオ・ガウディを日本に紹介した人物としても有名です。
当時はまだヨーロッパでもガウディの存在は知られていない時だったんですよ。
ガウディの作品にいたく感銘した今井氏は、この聖堂の双塔の形態、記念館両妻面の陶片モザイクの壁面装飾などに、ガウディのエッセンスを盛り込んでいる。

ただ、これは模倣したものではなく、今井氏自身もカトリック教徒であったこともあると思いますが、信仰と建築が一体となった中世カトリックの世界を実践し続けたガウディの創作方法に心底共鳴していた現れだと思います。
私は、戦後建築にも重要文化財の対象が拡げられた時にはこの教会堂が全国で最初に指定されるのではないかと思ってるんですよ。



●教会本来の意味を重視した宗教性あふれる聖堂

戦後に建てられた教会堂は、設計者側もそして発注者側も「教会堂」への思い入れが薄れているように感じます。
この教会ほど宗教性があるものは全国的に見ても少ないんじゃないでしょうか?
昭和の初期までは宗教性が重視されていましたが、現在では機能性が最優先のように感じますね。
教会にしても、お寺や神社にしても、他宗教の人でも感銘するものが本当の姿じゃないでしょうか。
宗派を問わず、訪れた人が最もその宗教らしいと思える空間。
そういう意味でもここは宗教性溢れた素晴らしい教会堂ですね。



●「長崎の教会堂を世界遺産へ」歴史と建物の価値を只今PR中!

全国で100棟余りを数える戦前期までに建てられた教会堂のうち、広域に渡って点在してはいるものの、その約半分が長崎県内とその周辺に残存しています。
潜伏、カクレキリシタン、復活したカトリック信者と、長年における長崎のキリスト教の歴史から見ても、この信仰心は世界に通じるのではないのか? という思いがあります。
世界遺産への登録は、まず国内で認知してもらうのが第一歩です。
文化庁がユネスコに1候補ずつ推薦する暫定(ざんてい)5候補に入らないといけない訳ですからね。
現在その暫定5候補への候補が30〜40あると言われています。
私達はまず多くの人々に、長崎県及び深い関わりを持つ周辺に点在する教会堂の存在と価値を知ってもらうために、パンフレットを作成し各地でシンポジウムを展開しています。
長崎のキリスト教の歴史を物語るこれらの教会堂は県の財産であり国の財産。
今後きちんと保存していくためにもまずは県内で、次に国内で「この教会堂群を世界遺産へ」的ムードを高めていきたいものです。


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