「レンガ」と「煉瓦」の違いは?
明治から昭和へ― 時は流れて

前ページでは「レンガ」と「煉瓦」を混在させたが、「レンガ」という単語も、カタカナだからといって外来語な訳ではなく、元々は日本語。ちなみに、英語では「Brick(ブリック)」だし、中国では「磚(せん)」。幕末から明治前半に西洋から伝わった頃には、「焼石」や「煉化石」などと訳され、その後「煉瓦」という呼び名に落ち着いたのだという。つまり、カタカナで「レンガ」と書くようになったのは、およそ昭和も半ば。「煉瓦」そのものがレトロな存在と認識されるようになってからだったのだ。ということは「コンニャク煉瓦」は「煉瓦」で正解!ということになる。
長崎の教会堂やキリスト教関連の建造物には、重厚な存在感を放つ煉瓦造りのものが多く見られる。そこには、明治初頭、文明開化時代に生きた日本人達が描いた「西洋に対する憧れ」、または「異国文化の権威への畏敬」というものも多分に含まれているようだ。


明治31年建造 マリア園

また、幕末から明治半ばまでは、多くの官庁や銀行など、格調高い洋風建築のものが建てられたが、それらの構造はいずれも煉瓦造りでありながら、外装は石造り風や漆喰塗りが大半。そちらの方が好まれたのだそうだ。そんな中、煉瓦をそのまま露出した形で利用したのは、工場や倉庫、軍事施設や鉄道施設など。また、平成19年(2007)に解体された諫早市の旧長崎刑務所(明治40年竣工)は、日本の初期の刑務所建築(明治の五大監獄)のひとつで、これもまた、デザイン性の高い煉瓦造りの建造物だった。

ちなみに、一見、レンガ造りには見えない長崎市内の煉瓦造り建造物ベスト3をピックアップしてみよう。

1.大浦天主堂(南山手町)
  ほかに出津教会(西出津町)、神の島教会(神の島町)などの教会堂




 

2.旧香港上海銀行長崎支店記念館(松が枝町)

 

3.旧長崎税関下り松派出所(現べっ甲工芸館)(松が枝町)



どうだろう? 意外な建物がランクインしていたのではないだろうか?

さて、それでは煉瓦を露出した工場はどうだろう? 長崎の場合、その中には炭坑施設が多く含まれる。グラバーがイギリスの最新の採炭機械を導入し、本格的な採掘をはじめた高島炭坑。高島は、グラバー以前にも炭坑が盛んな土地だった。
 

明治初期の風情漂う
南洋井坑の排気竪坑
(高島町)

北渓井坑(高島町/※九州・山口の近代化産業遺産群)はわずか7年で閉坑。その2年後にあたる明治4年(1871)に開坑されたのが、この南洋井坑。グラバー商会の倒産後に進出したオランダ商会が開発した排気竪坑で、明治4年(1871)〜明治25年(1892)の間、稼働した竪坑。今では看板なしでは辿り着けない程ひっそりとした場所に、竪坑の内壁を覆っていた煉瓦と思われるものが3面だけ残存している。そこには、まるでタイムスリップしたかのような、不思議な空間が広がっている。



建設時代の名残りを見せる
高島町の擁壁
(高島町)

高島には、前述したコンニャク煉瓦を使用した擁壁まで残っている。今はコンクリートが一般的で、石積みならまだ目にしたこともあるが、レンガの擁壁なんて新鮮! これは、明治20年頃、炭坑開発のために建設された道路と共に築かれた擁壁なんだとか。



軍艦島の入口にそびえる
第三竪坑の捲座
(端島 通称 軍艦島/※九州・山口の近代化産業遺産群)

今年、4月22日からの上陸ツアー解禁で、すっかり全国的認知度も高まった軍艦島(端島)。この島は、明治23年(1890)から80年あまり、三菱の経営で採炭を続けた炭坑の島だ。昭和49年(1974)年廃坑。無人島になったが、長崎半島から望む島影はまさしく「軍艦島」と呼ぶにふさわしく、多くの人々を魅了してきた。崩落した建物のがれきなどが散乱し、島内すべてを見て回ることはできないが、上陸地から程近い場所にレンガ造りの旧第三竪坑の捲座(まきざ)がある。捲座とはケージを昇降させる巻揚機がある施設で、坑道に入坑する鉱員達の 安全と命を守る大事な役割を担った施設。捲座はレンガ造りのものが多かった。現在も壁面の一部のみだが見ることができる。



今も天高くそびえ立つ
山下コークス跡の煙突
(香焼町)


 

コークスとは、石炭を蒸し焼きにした燃料のこと。実は、香焼島も古くから炭坑の町だった。すでに元禄13年(1700)頃には、農民の副業として始まり、深堀地区の鍛冶用、塩田用などに使用。その際取り締まりは武士、藩営だったが、明治7年(1874)に香焼炭坑社が開業し、以来、所有者は移り変わった。本格的な炭鉱開発は、主要坑道の機械化が始まった明治27年(1894)。

「山下コークス」は、その前年の明治26年(1893)、梅ノ木地区に後の初代香焼町長となる山下幸三氏が創立した工場で、これが香焼における工業の始まりともいえる。それからは複数のコークス工場が立ち並び、実に60年余りの間、数本の赤レンガの煙突からは、黒煙が上がる異色の光景が広がっていたのだという。その数、最盛期には67炉! 約270名の従業員がここで働いていた。今は、赤レンガの煙突だけが、その時代を偲ぶ遺構となっている。



壮麗な美しさを放つ外観は必見
三菱造船所木型場跡(三菱重工業株式会社長崎造船所史料館)
(飽ノ浦町)

 

飽ノ浦町、国道沿いに連なる三菱造船所のレンガ塀。それは意外にも高く、中の様子を伺い知ることは困難。そして、コンニャク煉瓦の建造物こそなくなったが、この塀の中には明治期に建てられた煉瓦造りの建物が今も残っている。明治31年(1898)に建てられた工場併設の木型場だった煉瓦造りの二階建て。今ではこの建物をそっくりそのまま史料館として利用。一般の見学も受け付けている。中から見るレンガ壁もなかなかの風情だが、外観のその堂々とした存在感と壮麗な美しさは一見の価値ありだ。

2002.3月ナガジン!ミュージアム探検隊『三菱重工株式会社 長崎造船所 史料館』参照
2008.1月ナガジン!特集『働きビトのプチ観光』参照
 

最後に、よく耳にするレンガの積み方の話を…。

一段長い面をずらっと並べ、次の段もは短い面をずらっと並べるという積み方→イギリス・オランダ積み
そして、一段の中に長い面と短い面を交互に並べていく積み方→フランス積み


イギリス・オランダ積み


フランス積み
ちなみに、高島町の南洋井坑はイギリス・オランダ積みで、小菅修船場はフランス積み。日本では、長崎造船所、富岡製糸所、銀座煉瓦街などなど、明治初期まではフランス積み構造が多く用いられたが、その後は多くがイギリス積みに移行していったんだとか。フランス積みの方がより優雅で美しいが、実はイギリス積みの方が合理的で堅固なのだという。

小菅修船場
 
 コラム●レンガ塀発見の旅!part.2

レンガ塀を求めて
居留地以外をぐるり!
 
居留地を離れたとはいっても、やはり歴史ある古い町並みの方が、古いレンガ塀に出会う確立は高い。出会いの感動というのを考えると、住宅街を何の気なしに歩いているときに出くわすのが、何より。例えば、諏訪神社から松森神社へ向かう途中、西山エリアで見つけたレンガ塀。周辺には、何やら、立派なお屋敷があるような気配……。さらには、伊良林界隈を歩いていると、時に蔵造りの家屋があったりして驚いたりするのだが、この界隈にも比較的多い。そして、意外に見落としがちなのが、県庁坂にある、ちょっと変わった地形に建つビルの側面にあたるレンガ塀。何だかこうして、赤レンガを意識しながら町を歩いていると、また新たな発見が生まれるような気が俄然してくる。
どこか明治の薫りを感じる「レンガ塀発見の旅!」ぜひ、皆さんも一度試してみてはいかがでしょう?
 

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