伊藤博文の肖像
■DATA■
滞在期間/安政5年7月(1858)、慶応元年(1865)〜慶応3年(1867)幾度となく来崎、明治22年(1889)
連れ/主に高杉晋作、井上聞多(馨)、村田新八ら
目的/洋式操練、武器調達、倒幕運動


伊藤博文●いとう・ひろぶみ
/天保12年〜明治42年(1841〜1909)。明治時代の政治家であり初代内閣総理大臣。周防国熊毛郡束荷村(現山口県熊毛郡大和町)の農家に生まれだが、父が長州藩の蔵元付仲間伊藤家の養子となり下級武士の身分を得た。幼名は利助、のちに俊輔を名乗る。博文と改名したのは、明治元年、初代兵庫県知事に就任後。憲法制定と、それを運用した立憲政治を定着させ日本の近代化に大きく貢献した政治家の一人。


長崎街道をひた走った一人、
明治日本を創った伊藤博文

今や旧千円札に映し出された彼の肖像写真が懐かしい、平成時代。だが、彼の存在は、いつの時代も語り継がれ継がれてきた---初代総理大臣・伊藤博文。
幕末、倒幕運動の中心人物だった伊藤博文は、長州藩の下級身分から身を起こした人物。彼に文武の業を授けたのは、安政3(1856)年、藩命で相州浦賀警衛にあたった伊藤を見いだした、重役・来原良蔵(くるはらりょうぞう)だった。
伊藤は来原の紹介で17歳の時に松下村塾に入門。その後、来原に従って初来崎。この時、オランダ人に就いて洋式操練を学んだという。
それから幕末から明治にかけ伊藤は幾度となくこの長崎を訪れた。薩摩藩・小松帯刀への援助申し入れ、グラバーからの武器調達。ここ長崎は倒幕運動の舞台のひとつ。倒幕という革命の主力だった薩長同盟を成立させた背後には、「武器商人」との異名を持つグラバーの存在もあったのだ。長崎港を見下ろす南山手の高台に建てられたグラバー住宅には、長州の伊藤博文、薩摩の五代友厚、土佐商会(三菱)の岩崎弥太郎らを代表とする幕末から明治にかけて活躍した人物が続々と訪れたといわれ、伊藤博文、井上聞多(馨)にいたっては、グラバーの尽力で密かに英国留学を果たした。

グラバー園
伊藤博文もこの風景を
目にしたのだろう
明治18年(1885)、内閣制度を創設し初代内閣総理大臣に就任。伊藤は、明治政府の高官となってからもグラバーと接触を保ち、私的に意見を求めることもあったという。
また彼は、現在も木造三階建ての風格ある佇まいをとどめる、老舗料亭・富貴楼とも縁深い間柄。江戸時代、皇族・貴族をはじめ、内外高官や文人墨客が集う「崎陽松の森・千秋亭」で名を馳せた料亭・千秋亭を改め、富貴楼と名付けたのは、時の総理大臣・伊藤博文だったのだ。彼が明治22年(1889)、来亭の折「何かよい名前を付けて下さい」と、女将の内田トミが頼むと「女将の名前は何という、ああ、トミか、それではこれがよかろう」と「富貴樓」という名を示した。当時、庭内に咲く牡丹花が長崎の名物で、伊藤はその高貴な姿と女将の名前を結びつけたのだそうだ。

老舗料亭・富貴楼
350年を越える歴史を誇る
老舗料亭の風格ある佇まい


目的を遂行するべく長崎入りする伊藤博文が行き交った道は、もちろん長崎街道。グラバー園、富貴楼、長崎街道。歴史を動かした伊藤博文が見た風景は、平成に生きる私たちの目にも同じように映る、鮮やかな長崎風景だ。



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