曲がりくねった坂の小路を上がったり下ったり。この路地を抜けると、思わず声が出るほどの絶景が! もしかしたらこの光景は、幕末から明治にかけて長崎で活躍した<あの人達>も目にしたかもしれない…。グラバー、お慶、海舟。そしてあの龍馬も歩いたであろう道を探し求めて、長崎ぶ〜らぶら。


ズバリ!今回のテーマは
「温故知新のまち歩き!」なのだ



 
今回は、あくまで想像の域の散策である。なにせ時は流れ去り、周囲の佇まいはもちろん、道幅、道の位置は変わり、さらには道そのものがなくなっていたり、かつては海だったという場合があったりするのだから…。彼らが長崎のまちを闊歩する後ろ姿を思い浮かべながら、ゆかりの地へと出かけてみよう。

若き青年、グラバーが

目にしただろう長崎風景

まずは、グラバー。
実は今年は、安政6年(1859)にトーマス・ブレーク・グラバーが開港したばかりの長崎港に降り立ってから、150年の記念すべき年。グラバーは、長崎で活躍した長崎を代表する偉人であるとともに、幕末から明治にかけての日本を動かした人物といっても過言ではない幕末の勇者だ。後に紹介するお慶こと大浦慶、勝海舟、そして坂本龍馬と同じ時代を生きた同世代の貿易商人、グラバーが歩いた道とは……。

安政6年、長崎港に入った21歳のグラバー青年と、同行した2人の弟は、とりあえず出島の外れに居を構えたという。しかし、出島が一般外国人の居留地となったのは、慶応2年(1866)から。もちろん、当時はまだ埋め立て工事も開始されておらず、皆さんご存知の扇形をした離れ小島だった。もしかしたら、すでに長崎で貿易会社ジャーディン・マセソン商会の代理店をやっていた同郷のベテラン貿易商人、マッケンジー(ケネス・ロス・マッケンジー)のコネが働いて出島に落ち着いたのかもしれない。


出島
しばらくマッケンジーの下で働いたグラバーが、当時出島から通勤していたとすると、出島の表門を渡り、最河口に架かる長久橋を渡って銅座跡へ抜け、新地−梅香崎間を結んだ「梅香崎橋」の完成は明治2年(1869)のことだから、舟大工町(現船大工町)、本籠町(現籠町)を経由して御崎道(みさきみち)から大浦入りしたと考えられる。または、新地蔵を銅座側の表門から入り、唐人屋敷側にあった南門へ抜け、御崎道というルートだったかもしれない。



新地蔵表門跡

今では、長久橋の位置も移動しているし、新地蔵を囲んでいた海もすべて埋め立てられているので実感は湧かないが、グラバーは、いくつもの木橋を渡りながら、まだ随所に鎖国時代の名残を漂わせる長崎の風景を目にしたことだろう。

翌年、万延元年(1860)には、大浦居留地の区画割が決まり、グラバーは大浦海岸通りの一本裏通りである21番が割り振られた。
この場所は、現在のオランダ坂(活水坂方面)の入り口右手から2軒目。ただし、今より奥行きがあり、奥の梅香崎中学校の敷地にまで食い込み、さらにその間には、細い路地があったようだ。いずれにせよ、オランダ坂はかつての崖で、その下の二等地だった。



大浦21番跡

そして、そのまた翌年、文久元年(1861)にマッケンジーは、中国へ戻ることとなり、グラバーがジャーディン・マセソン商会日本支店長を引き継ぎ、「グラバー商会」を設立する。マッケンジーが離崎する頃、大浦2番には新しい建物が完成しようとしていた。後のグラバー商会だ。ここは、長崎湊所(後の運上所、税関)から目と鼻の先。大浦海岸通りのまさしく一等地だった。今、「我が国鉄道発祥の地」の石碑が建つ辺りだ。つまり、グラバーが慶応元年(1865)7月、日本で初めて300m程の線路を敷き、輸入した英国製蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせたのは、グラバー商会の前の通りだったということになる。


我が国鉄道発祥の地

マッケンジーは、南山手の丘に土地を借りていた。場所は南山手3番、グラバー邸が今の形態になる以前、その一部にはマッケンジーの邸宅があったのだ。この土地も長崎を離れるマッケンジーから譲り受けたものだったのかもしれない。
離崎の年に、グラバーが入手している。グラバーがここに居を構えるのは、それから2年後の文久3年(1863)のことだ。


グラバー邸から、グラバー商会まで、グラバーはどのように向かっていたのだろう。それを考えたとき、浜崎国男著「長崎異人街誌」の扉に掲載された落合素江筆「大浦グラバー氏邸の図」(長崎県立図書館蔵)が思い浮かんだ。

高くそびえ立つ「よんご松」。クローバー型をした現在とあまり変わらないグラバー邸から、真っすぐに、海岸線に向かって石段が続いているのだ。この絵がいつ頃描かれたものか、さだかではないが、実際にこのようになっていたとすると、グラバーはこの石段を真っすぐ下り、多数のサンパンが係留する大浦川の光景を眺めながら最河口からひとつ中に架かる弁天橋を渡り、現在の「オランダ通り」を通って通勤していたと考えられる。通勤に一番便利と考えられる、当初「下り松橋」と呼ばれた最河口の松ヶ枝橋は、くしくもグラバー商会が倒産した明治3年(1870)に架設なのだ。

旧英国領事館裏・オランダ通り

グラバーは果たして徒歩だったのだろうか? と思い、調べてみると、居留地を人力車が一般通行するようになったのは、明治6年(1873)のことだった。つまり長崎滞在中、人力車を利用することもあっただろうが、グラバー自身、まだまだ若くもあり、多くはその足で長崎の町を行き来したことだろう。明治時代、大浦海岸通りには、街路樹が約7m間隔で植えられていたというから、グラバーも松や山桐などで緑化された街路樹を眺めながら歩いたかもしれない。

高島の船着き場からグラバー別邸へと続く古い石段もまた、グラバーが幾度となく行き交った道。石段といえば、グラバー邸の馬小屋側に、今も大浦天主堂へとつながる古い石段跡が残っている。日曜日にはここを下り、天主堂へ参拝していたのだろうか? この風化した石段を目にした時、グラバーがここで生活をしていた、あの目まぐるしい時代の風景が、一瞬だけ浮かび上がった気がした。


グラバー別邸の石段


グラバー邸の石段

2002.9月ナガジン!特集『グラバーが住んだ丘〜グラバー園・満足観光ナビ〜』参照
2002.3月ナガジン!特集『長崎に眠る異国の人々』参照
2008.1月ナガジン!特集『働きビトのプチ観光』参照
2009.5月ナガジン!特集『長崎異人館ストーリー』参照

〈1/3頁〉
【次の頁へ】


【もどる】