長崎の女傑・お慶が
頻繁に行き交った路

茶の輸出業で巨万の富を築いた長崎の女傑といえば、お慶こと、大浦慶。文政11年(1828)生まれ。現在、お慶の居宅があった場所には石碑が建っている。油商いの盛んな油屋町屈指の油問屋「大浦屋」は、現在、様々な店が入っている白い大きな「橋本ビル」の場所にあった。江戸時代初期、貿易業のため上方から長崎へ来たといわれている大浦家は、17世紀以来、約200年にわたり続いた商家。敷地は約426坪、土蔵が3つ並んだ大豪邸。お慶は、明治17年(1884)、数え年、57歳で亡くなるまで、この「油屋町壱番戸」で暮らした。

幕末、お慶の時代になると大量の輸入油に押され、お慶は油商に見切りをつけ茶の輸出を計画。そんなお慶の製茶輸出のパートナーは、英商ウィリアム・オルトだった。
安政元年(1854)、日英和親条約が長崎で調印された後の安政3年(1856)に、オルトは初来航を果たしていたと考えられている。実はお慶、嘉永6年(1853)に、すでに阿蘭陀通詞の品川藤十郎の協力を得て、出島のオランダ人、テキストルに談判し、佐賀の嬉野茶の「見本」を依託、イギリス・アメリカ・アラビアの3ヵ国へ送ってもらった。そして、それから3年後の安政3年(1856) 、見本を見たオルトが長崎に来て、お慶に大量の茶を注文するようになってから、お慶の茶貿易は順調に発展していったのだった。

大浦けい居宅跡

オルトは1840年生まれだから、お慶はひと回り上のお姉さんであり、二人が出会った頃は、すっかり風格ある女性だったことだろう。

聞き流せないのが、「出島のオランダ人、テキストルに談判した」という点。お慶は、出島に出入りしていたのだろうか? だとすると、家から真っすぐ、浜町を通り、現在の鉄橋が架かる以前に「大橋」と呼ばれていた木造橋を渡って、出島の表門から入っていたのだろうか?
また、オルトとお慶の商談は、大浦海岸通り上等地、7番に置かれた613.7坪のオルト商会で行なわれたことだろう。オルトが長崎にいたのは、明治維新の1868年9月まで。前述の通り、新地−梅香崎間にはまだ梅香崎橋はないわけだから、取引のたびに、お慶は、思案橋を渡り、本石灰町、舟大工町(現船大工町)、本籠町(現籠町)を通って、十人町から御崎道に入り、オランダ坂を下るというルートを歩いていたと推測。商才に長けた着物姿のお慶が、洋館が建ち並ぶ居留地の中を小走りで行き来する姿が思い浮かぶ。

御崎道起点
商才といえば、お慶は、家からも程近い、祈祷寺で知られる鍛冶屋町の清水寺の聖天堂にある、事業の成功を祈るために祀られたといわれる仏教の護法神のひとつ「歓喜天(かんぎてん)」を熱心に信仰していた。そして、聖天堂からの帰り道、お慶は八坂神社の神職だった博学の小西成則(しげのり)翁をいつも訪れ、いろいろと教えを受けていたのだという。清水さんの本堂を通り抜け、八坂さんへ。この道もお慶が通った道。

清水寺・聖天堂

また、清水寺本堂から100m程上った高平町(こうやびら)の高台には、大浦家の墓所がある。11基カギ型に並んだ大浦家の墓碑のなかで、お慶の墓が一番新しい。おそらく、何度となく先祖の墓参りのために、清水さんの石段を上り下りしたことだろう。かつては、長崎港を一望する絶景地だった清水寺は、商売に忙しく駆け回るお慶の安らぎの場であったかもしれない。

大浦家の墓へ続く坂道

お慶の墓
今年の長崎くんちでは、お慶が一生を過ごした油屋町も7年に一度の踊町として奉納する。今日まで受け継がれてきた油屋町の傘鉾は、実は明治初年、お慶が茶貿易で財を成した後に京都で作らせたものだった。その傘鉾の垂幕を今回、原形通りに復元して新調されたというから見物だ。きっと、お慶も少なくとも7年に一度、油屋町が踊町の際は、寺町を通り、中島川に架かる石橋を渡ってお諏訪さんへ向かい、長崎くんちの奉納踊りを鑑賞したに違いない。

中島川に架かる大井手橋

2004.5月ナガジン!特集『長崎の女傑 大浦慶』参照
 

海舟がおクマと出会った
石畳の坂道を探して…

嘉永6年(1853)の黒船来航を受け、江戸幕府は、安政2年(1855)、長崎に海軍士官養成のための長崎海軍伝習所を設立した。場所は、長崎奉行所西役所内(現 長崎県庁)。勝海舟は、その第一期生として来崎し、筑後町の本蓮寺境内、山門をくぐり右手にあった大乗院に身を寄せた。本蓮寺山門入口には「勝海舟寓居の地」という石碑が建っている。


勝海舟寓居の地
本蓮寺から伝習所までの道は、かつてとはすっかり様変わりしている。海舟は、おそらく現在中町カトリック教会が建つ、かつての「大村藩蔵屋敷」の石垣を横目に、中央郵便局脇の裏通りに架かっていた新橋という石橋を渡って、KTNテレビ長崎の裏、本五島町(現五島町)、樺島町公園横辺りを通っていたのではないだろうか?

大村藩蔵屋敷石垣跡

オランダ語が堪能だった海舟は、教官を兼ねた伝習生という身分だったため、約5年もの間、長崎に滞在。長崎にも妻のように暮らした評判の美人、おクマ(梶久子)という女性がいた。筑後町の米穀商の娘で、一度は他家に嫁いだものの数ヶ月で夫を亡くし、梶家に戻っていた。2人の出逢いは、おクマが22歳、海舟33歳の時だった。ある雨の日、石畳の坂道で、海舟が下駄の鼻緒を切らして困っていると、おクマが鼻緒をすげてくれたのだという。

果たしてその伝説が残る石畳の坂道とは、どこだろう? おクマは、大乗院から裏道沿いに数分の所に住んでいたというから、筑後町辺りだということには間違いないだろう。今度、海舟とおクマのロマンスが残る、筑後町界隈を歩く時は、それらしき坂道を探してみてはいかがだろうか。

筑後町・石段の坂道

2008.6月ナガジン!長崎往来人物伝『勝海舟』参照
2008.11月ナガジン!特集『石で巡る長崎』参照

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