勝海舟の肖像(保存禁止)
勝海舟の肖像

■DATA■
滞在期間/1度目:安政2年(1855)から約5年間、2度目:元治元年(1864)約40日間
連れ/1度目:矢田彫鴻ほか、2度目:坂本龍馬
目的/1度目:長崎海軍伝習所入門、2度目:幕府の命


勝海舟●かつ・かいしゅう
/文政6年(1823)江戸本所亀沢町(現東京都墨田区両国)生まれの江戸っ子。父は下級武士であった勝小吉。この父の血を受け継ぎ海舟は剣術を得意とした。万延元年には咸臨丸の艦長としてアメリカを往復。この使節の成功により幕府の軍艦奉行に任命された。幕府の高官という立場で江戸無血開城の任を果たした倒幕の立役者として有名。明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍した。幼名は麟太郎。海舟は号で本名は義邦、維新後は安芳と改名した。明治32年(1899)、77歳で逝去。


海軍伝習所時代のロマンスと友
海舟を支えた長崎の人々との出逢い

海舟が長崎を訪れたのは2度。最初は、嘉永6年(1853)の黒船来航翌年のことだった。ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が江戸湾浦賀に来航し開国が要求されると、翌安政元年(1854)に異例の公募により上申書が集められた。その際、総数700通の中から卓見を認められたのが海舟の「海防意見書」。海舟はかつて現在の長崎県庁の地にあった長崎奉行所西役所内に設置された長崎海軍伝習所に入門のため来崎した。この時すでにオランダ語が堪能だった海舟は、教官を兼ねた伝習生として約5年間の長きに渡り長崎で過ごすこととなる。その際、海舟が身を寄せていたのが本蓮寺境内の大乗院だった。

そんな海舟には、長崎に妻のように暮らしたおクマ(梶久子)という女性がいた。筑後町の米穀商の娘で、一度は他家に嫁いだものの数ヶ月で夫を亡くし、梶家に戻っていた。おクマが22歳、海舟33歳の時に2人は出会い、海舟は大乗院よりもそこから裏道沿いに数分の所に住んでいたおクマの家でほとんど過ごし、2人の間には“梅太郎”という子どももいた。しかしおクマは梅太郎を産んで2年後、26歳の時に急逝。海舟はその死をひどく嘆いたという。


■勝海舟寓居の地
本蓮寺山門入口に建つ勝海舟寓居の地の碑


■小曽根邸の跡
長崎海軍伝習所跡地に程近い長崎屈指の豪商邸宅跡

そして2度目は、元治元年(1864)軍艦奉行としての来崎だった。外国連合艦隊が長州攻撃を企てているという情報があり、幕府にそれを中止させる調停の任務を命じられ長崎に派遣されたのだ。この時海舟は坂本龍馬を伴っていた。龍馬にとっては初めての長崎。海舟は各国の領事や艦長と交渉し、調停を成功させるなど公務を果たしながら、長崎海軍伝習所で親交のあった長崎屈指の豪商・小曽根家の英四郎を訪ね、龍馬を紹介した。翌年、龍馬が設立した日本初の商社「亀山社中」の本部がこの小曽根邸。会社設立は、この小曽根家に物心両面でバックアップされての実現だった。龍馬と小曽根家の間を取り持った海舟自身もまた小曽根家に支援や世話を受けていたという。海舟の印は、幕末から明治にかけて活躍した篆刻家・小曽根乾堂(けんどう)の物だった。


長崎伝習所時代、他にも共に学んだ大勢の友との出逢いがあり、多くの思い出が胸にあったことだろう。海舟が歩いたであろう筑後町、万才町界隈を訪れた際は、日本を動かした男・勝海舟にしばし思いを馳せてみてはどうだろうか。



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