長崎の代名詞とも呼べる眼鏡橋やオランダ坂。思えばいずれも雨の日にぬれてなお異国情緒を醸し出す石の築造物である。しかし待てよ! よくよく考えてみればそれだけではない。長崎は石だらけである。通りは新旧入り乱れた石畳。その端には石の側溝、石張りの川。時代を感じさせるりっぱな石垣、石塀。石橋は中島川に架かるものだけではなく、高台に建つ家々さえも、がっしりとした自然石が積まれた石垣の上に建てられているのだ。そこで、


ズバリ!今回のテーマは
「石が語る長崎物語を調査!」

観光名所はもとより、あらゆる石に目を光らせて町中を散策! いつもの観光ルートも違って見えること間違いなしだ。


今回、自然史研究家の布袋厚氏の著書『長崎石物語』を参考書とさせていただいた。この本によれば、江戸時代にできた石の築造物の石材の多くは安山岩という石で、その石切場は、風頭山や、城の古址、岩原(現立山)の三ヶ所だったという。さらに、実はこの安山岩があるという時点で長崎に火山があったという決定的な物証となるのだそうだ。長崎にはまだまだ知らないことだらけのようだ。
 


Check 1 石畳

「異国風石畳の道と
長崎風の石畳の路地」



歴史あるヨーロッパの景観になくてはならない存在なのが石畳。その歴史は、なんと紀元前。その頃から自然石を使った舗装の歴史があったのだ。今では世界各国、石畳の道が特別珍しいということはないが、遠い昔の日本においては寺社の参道として、境内の歩道や石段が造られる程度だった。そんななか、やはり長崎は特別だった。海外との接点が多かった長崎における石による舗装の文化は当然の成り行きといったところだろうか。

長崎ではじめて石畳が敷かれたと伝えられるのが、現在の八百屋町通り。文禄3年(1594)、開港から程なくして、今、歴史文化博物館がある場所に山のサンタ・マリア教会が建てられた。
現在サント・ドミンゴ教会跡資料館のある敷地は、長崎市役所がある国道34号線を正面としているが、教会時代は裏通りにあたる八百屋町通りの方が本通りだったことが館内の資料から知ることができる。『イエズス会年報』には、1601年、この山のサンタ・マリア教会から、現在の長崎市役所のある桜町方面へ延びた道筋に、長崎ではじめて石畳が敷かれたと記録されている。石畳=路面の舗装。当時長崎を闊歩していたポルトガル人達の履物にも関係するのだろうか。資料館内には400年以上前の同時期の石畳を見ることができる。大小様々の自然石、長崎の石畳文化はここからはじまったのだ。

サント・ドミンゴ教会跡石畳

時を隔て、開国後の外国人居留地。東山手、南山手、大浦海岸通に開かれた居留地に住む外国人達は「教会へ通じる1本は完全に舗装し、山手のあらゆる坂道は同様に割り石を敷くこと」を要求した。彼らが求めたのは、やはり祖国のような道路。つまり馬車や人力車など車輪を持つ交通機関の通行に石畳は不可欠なものだったのだ。かくして名所・オランダ坂の石畳は彼ら居留地の外国人の要求によって生まれた。石畳の他に長崎に住む異国人の文化が多く取り入れられていったことを表しているのが、V字型に組まれた三角溝。2枚の石板を地形に合わせて角度を変えた別名・オランダ式側溝だ。三角溝は南山手や東山手の外国人居留地跡に多く見られ、出島や樺島町などにもある。この側溝は、坂道に降った雨をあふれさせることなく、また、水量が少なくても勢いよく流れ坂の下へと運ぶ。雨の長崎が美しくいわれるのは、そんな雨の日を快適に過ごす異国文化の定着と、それを情緒として受け止めてきた長崎人の感性の賜物だろうか。


どんどん坂の石畳


三角溝
改めて見てみると、大浦天主堂前の石畳もヨーロッパ郊外の広場のように見えてくるから不思議! オランダ坂は横方向に、どんどん坂は斜線状に板石を敷きつめ、規則的な美しいヨーロッパの街並みを彷彿とさせる。しかし周辺の環境によっては、ひとくちにヨーロッパ風とはいいがたい石畳も多い。
大浦天主堂前の石畳

例えば丸山の小路には花街時代からの古い石畳が残り、実際に現役の芸者さんが行き交うこともあるわけで、そこには“和”の風情が漂っている。また、筑後町から玉園町へと抜ける閑静な“筑後通り”沿いには、石畳の中央に長方形の板石が縦に敷かれた江戸時代築造の石段があるが、ここにもところどころに古い石畳が残されている。


石畳の坂段


石積みが見える
隣接するのは長崎奉行所や諸藩御用達の料亭「迎陽亭(こうようてい)」跡。ここは多くの要人がこの行き交った歴史ある道なのだ。これら旧市街地には四角い石張りの溝や川、通称エゴバタが存在しているのにも着目しよう。


エゴバタ

館内周辺の四角溝は必見だ。そして、石張りの川として代表的なのは中通り商店街と寺町の間を流れる「シシトキ川」だろう。この川は中島川の支流である銅座川のまたまた支流の川。今はまるで忘れさられているが、かつて思案橋があったように、思案橋周辺の川は暗渠となっているだけで、地下には川が流れているのだ。桶屋町から築町を経て出島橋へ流れる石張りの「地獄川」も公会堂の裏や中央公園裏に少しだけその表情を見せてくれる。

長崎の町は一歩路地へ入れば板石と自然石を組み合わせ、はたまたその上にコンクリートを流し込んだような路地が数多い。そして、その周りには石張りの溝があり、石造りの手すりがあり、家も古い石垣の上に建っているのだ。これこそが長崎風。石の町、長崎ならではの風景なのだ。
   
 コラム●長崎の石は彼方から  

外国人居留地造成の際、利用されたのが「天草石」と呼ばれる天草産の様々な石。造成工事を天草人が請け負ったことから資材も天草産のものが多く使われたのだという。なかでも本渡市下浦産の砂岩が石畳用に歓迎された。幕末の混乱期、天草の富岡が長崎県に入っていた時期が3年余あるなど、天草と長崎は何かと縁深い間柄。居留地の石にもその歴史が刻まれているのだろうか。


歯痛狛犬

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