Check2 石垣
「かつての記憶を呼び起こす石垣」


正門階段、石垣、壕。歴史文化博物館建設前の発掘作業においては、知られざる長崎奉行所立山役所時代の遺構が出土。当時の衝撃を思い出しても、現在再利用された石垣、石段を見てもその感動は大きい。


発掘された正面階段


長崎奉行所立山役所時代の遺構

歴史文化博物館からも程近い殉教者に捧げ建立された中町教会は、被爆遺構としても知られる白亜の美しい教会。しかしながら、遠目から眺めるとなんとなく違和感をおぼえる。周囲の建物で見えにくい部分もあるが、この石垣はどうやら電車通り側にも続いている。しかもこの石垣、表面は平らできれいに加工された多角形。まるでお城のようなりっぱなものなのだ。実はこの石垣、かつてこの地が大村藩蔵屋敷だった江戸時代のもの。裏通りに見られる高さ2m程の塀は、自然石を石灰と赤土を混ぜた長崎独特のアマカワという漆喰で固めたものだ。
これと同様なのが花街跡である丸山に残る遊郭時代の塀。寄合町にある玉泉神社奥に連なる塀は、遊郭の外周が確かめられ、当時の風景を思い起こさせてくれる貴重な遺構だ。


大村藩蔵屋敷時代の石垣


遊郭時代の石塀

一方、石と石の間を漆喰やコンクリートで固めずに、石を組みあげて行く工法を空積みという。寺町に連なる石垣には、自然石やそれを半分に割った石が空積みされている。熟練された技術を持つ石工の仕事だ。寺町の後山、風頭山は今もその形跡を残す石切り場跡。当然、この周辺の石材は大音寺と晧台寺間の弊振坂を通り切り出されてきた風頭の石かと思いきや、弊振坂の脇の石垣は性質が違い日見峠周辺の岩石なのだという。




弊振坂

高い技術で空積みされた石垣は、今も見事な景観をとどめる「料亭 青柳」下や、長崎版忠臣蔵「深堀喧嘩騒動」の舞台、天満坂(喧嘩坂)の両側、また開港当時からの遺構ともいわれている天満坂と並ぶ県庁南東側に見る事ができる。ここでは、かつての石垣の上に新たに正方形に仕上げられた石材が水平積みされているところにも注目してみよう。


料亭青柳の石垣


県庁南東側に連なる石垣
深堀といえば、ここにも風情漂う石塀がある。江戸時代初期に築造された、深堀藩の陣屋跡周辺の武家屋敷跡の石塀だ。石垣の石は大小様々で、隙間には漆喰が塗り込まれている。この漆喰の白が映える五色の塀が特徴的だ。


深堀武家屋敷跡の石塀
外海エリアに残るド・ロ神父が考案したド・ロ塀や、西彼杵半島一円に広く分布していると変成岩の一種、結晶片岩である温石石(おんじゃくいし)からなる丸尾地区の石垣も、個性的で外海の昔ながらの風情ある景観に一役かっている。



温石石の石垣
時代を偲ばせる石垣はまだまだある。以前越中先生に案内していただいた桜馬場天満宮には、かつて威福寺という寺院があった時代のものと思われるキリシタン墓碑が埋め込まれた石垣があった。

キリシタン墓碑の石垣
また、発掘された出島築造に使用された石材も興味深い。その大部分を占めた長崎産の安山岩と砂岩・砂礫岩(されきがん)は香焼や長崎港内外の海岸に転がっていた石をかき集め運んできたものではないかと推定されているのだ。ほとんど加工されていない自然石が野面(のずら)石積みというシンプルな工法で仕上げられている。

出島の石積み

最後は浦上教会の石垣。これは、かつてこの地にあった「高谷庄屋屋敷」のものだ。だが、この石垣は三層に分かれているという。つまり、石垣が積まれた時代が三度あると推測されているのだ。そして、その三層目の新しい石材の表面には彫刻が見られる。実は原爆で崩壊した東洋一とうたわれたロマネスク様式の旧天主堂は、外壁に彫刻が施されていた。この三層目の石材は、被爆した旧天主堂の石材を再利用したものなのだ。祖先が築き上げた旧天主堂は、現在も浦上信者の側にあり続けていた。


浦上教会の石垣
   
  コラム●長崎の石は彼方へ

秋田県由利本荘市の折渡峠(おりわたりとうげ)に千体のお地蔵さんが奉られた「千体地蔵」がある。この北の遥か彼方の地に、長崎ゆかりの石が埋納されているという。
正確には、コンクリートの壁。山里国民学校(現山里小学校)で被爆した壁が、頂上の2体、999番目と1000番のお地蔵さんの下に沖縄、広島の石とともに埋納されているという。発起人であられる高橋喜一郎さんに話を伺うと、古くから地域の霊地であった折渡の地に、宗教を越えた新たな信仰の場をつくりたいと全国に呼びかけ、千体地蔵をお奉りする際、世界平和を祈るシンボルとして3つの地域に依頼し実現したのだという。長崎の哀しい歴史を刻んだ石が、遥か彼方で「平和への道標」として存在している。

千体地蔵

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