嘉永6年(1853)、まずは阿蘭陀通詞の品川藤十郎の協力を得て、出島のオランダ人・テキストルという人物に佐賀の嬉野(当時の肥前国藤津郡嬉野)の嬉野茶の見本を託し、イギリス・アメリカ・アラビアの3ケ国へ送ってもらった。
それから3年後の安政3年(1856) 、見本を見たイギリス人の貿易商人ウィリアム・オルトが長崎に来て、お慶に大量の茶を注文するようになってから、お慶の茶貿易は順調に発展していく。
当初、オルトからの発注を受け、お慶は一万斤(6トン)もの嬉野茶を手配し、アメリカへ輸出したのだという。 1万斤は普通6トンだが、お慶自身の記述には1斤約930グラムとあり、1万斤は9.38トンに及ぶことになる。巨額の注文に嬉野産の茶だけでは応じきれず、お慶は九州一円の茶の産地を駆け回り、やっと1万斤をアメリカへ向け輸出させ、これが日本における本格的製茶輸出貿易の先駆けとなった。
17世紀初めから19世紀頃まで世界の茶市場は中国茶が独占。 イギリスは紅茶の本場として有名だが、意外にもそれはこの中国茶の時代を経てからのことなのだとか。そんな中で日本茶は中国茶と一緒にヨーロッパなどへと運ばれていった。
当時、世界市場においてお茶は重要な高額商品であり、幕末に日本へやってきた外国人商人は喜んで日本緑茶を買い求めた。オルトやグラバーも大浦海岸通りの居留地に大規模な製茶工場を建て、輸出している。
お慶が手掛けた嬉野茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、 お慶は30代にして茶貿易商として莫大な富みを得たのだった。
安政6年(1859)、長崎・横浜・函館の三港が開港し、以後自由貿易の時代がはじまると、長崎からは嬉野茶6トンを含み年間約240トンが輸出されていた。その後アメリカで南北戦争が起こり、お茶の輸出は一時停滞するが、戦争終結と共に需要が飛躍的に増大し、慶応2年(1866)長崎港からの輸出はピークに達した。
当時の女性としては珍しく外国人を相手に商売で成功したお慶は、国際感覚を持ち合わせ、なおかつ商才にたけていたに違いない。
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