<茶の輸出で巨万の富を築いた大浦慶(1828〜1884)>

夏も近づく八十八夜♪ トントン! 
八十八夜とは、立春から88日目にあたり、田畑に種子を播く適期。
お茶では茶摘みの最盛期だ。
5月1日に八十八夜を迎え、今年もいよいよ新茶の美味しい季節到来だ。

ところで皆さんは日本におけるお茶の歴史をご存知だろうか? 
約40年前まで油屋町にあった貴重な遺構、大浦屋跡の取材実現! 
今回は、近代日本の製茶輸出貿易の先駆者として、幕末の長崎で活躍した女性、
大浦慶(けい)にスポットを当ててみよう。


ズバリ!今回のテーマは
「屋敷跡初公開!お慶の実像に迫る!」なのだ




●行動力と商才にたけた貿易商・お慶誕生!

お慶は文政11年(1828)、思案橋にほど近い油屋町にあった長崎でも屈指の油問屋「大浦屋」に誕生。油屋町は名の通り油商いの盛んな町で、その中でも中心的存在だった大浦屋は、元々江戸時代初期、貿易業のため上方から長崎へ来たともいわれるが、いずれにせよ17世紀以来、約200年にわたり続いた商家だったという。しかし、幕末のお慶の時代になると大量の輸入油に押され、 油屋町のどこの油商も経営難に陥り、お慶の家も例にもれず傾いていった。

また、天保14年(1843)、お慶が16歳のとき、油屋町を含む526戸が焼失する大火に見舞われ、大浦屋も大きな痛手を被ったという。お慶の青春は大浦屋の再興のためだけに費やされていった。
そこで、お慶は油商に見切りをつけ、茶の輸出を計画したのだった。

長崎におけるお茶の歴史は古く、平安時代末期の頃、 日本に中国の文化が伝わった遣唐使の時代に禅僧・栄西が大陸から平戸の地に禅とお茶を持ち帰ったのがはじまりで、 それらが後に本格的なお茶の栽培として、全国各地に広まったといわれている。



浜市アーケード近く、
油屋町に立つ大浦けい宅跡の石碑


特に15世紀に釜煎りによる製茶法が西九州に伝えられると、東彼杵町で盛んに栽培されるようになり、その後、元禄年間(1688〜1704)に大村藩主の奨励によって栽培が拡大し、茶業の基礎が作られた。茶産業は、輸出に端を発し今日の発展を見せている。
日本茶が海外へ輸出されたのは、平戸に来航したオランダ東インド会社によってヨーロッパに向け船積みされたのが最初で、鎖国時代、唯一の窓口だった長崎からオランダ人によって日本茶が世界へ伝わっていった。
そして、幕末から明治にかけては、九州各地の釜煎り製玉緑茶が集められ、長崎から盛んに輸出された。その功労者が、大浦慶だ。




●オルトとの出会いで茶貿易順調発展!


嘉永6年(1853)、まずは阿蘭陀通詞の品川藤十郎の協力を得て、出島のオランダ人・テキストルという人物に佐賀の嬉野(当時の肥前国藤津郡嬉野)の嬉野茶の見本を託し、イギリス・アメリカ・アラビアの3ケ国へ送ってもらった。
それから3年後の安政3年(1856) 、見本を見たイギリス人の貿易商人ウィリアム・オルトが長崎に来て、お慶に大量の茶を注文するようになってから、お慶の茶貿易は順調に発展していく。

当初、オルトからの発注を受け、お慶は一万斤(6トン)もの嬉野茶を手配し、アメリカへ輸出したのだという。 1万斤は普通6トンだが、お慶自身の記述には1斤約930グラムとあり、1万斤は9.38トンに及ぶことになる。巨額の注文に嬉野産の茶だけでは応じきれず、お慶は九州一円の茶の産地を駆け回り、やっと1万斤をアメリカへ向け輸出させ、これが日本における本格的製茶輸出貿易の先駆けとなった。

17世紀初めから19世紀頃まで世界の茶市場は中国茶が独占。 イギリスは紅茶の本場として有名だが、意外にもそれはこの中国茶の時代を経てからのことなのだとか。そんな中で日本茶は中国茶と一緒にヨーロッパなどへと運ばれていった。
当時、世界市場においてお茶は重要な高額商品であり、幕末に日本へやってきた外国人商人は喜んで日本緑茶を買い求めた。オルトやグラバーも大浦海岸通りの居留地に大規模な製茶工場を建て、輸出している。

お慶が手掛けた嬉野茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、 お慶は30代にして茶貿易商として莫大な富みを得たのだった。
安政6年(1859)、長崎・横浜・函館の三港が開港し、以後自由貿易の時代がはじまると、長崎からは嬉野茶6トンを含み年間約240トンが輸出されていた。その後アメリカで南北戦争が起こり、お茶の輸出は一時停滞するが、戦争終結と共に需要が飛躍的に増大し、慶応2年(1866)長崎港からの輸出はピークに達した。
当時の女性としては珍しく外国人を相手に商売で成功したお慶は、国際感覚を持ち合わせ、なおかつ商才にたけていたに違いない。




◆お慶の横顔・お慶、油屋町の傘鉾を寄進する

諏訪神社の秋の大祭・長崎くんちで、踊町の町印として先頭に立ち、華麗な円舞を見せる傘鉾。実は現代に受け継がれている油屋町の傘鉾は、明治初年、お慶が茶貿易で財を成した後、京都で作らせたものなのだそうだ。傘鉾制作費は大方の見当を絶する金額。町の名誉を凝集したシンボルは趣向を凝らし、かつ絢爛の極致でなければならなかった。また、江戸時代の傘鉾は親代々の富家に限ってつくられ、伝統と権威を重んじていたため、にわか成金では町内が許さない。しかし、この傘鉾を一手に引き受けて出した町人は“傘鉾町人”といい尊敬されたという。お慶も相当に町民から慕われていたことだろう。
ダシ(飾り)は白木の三宝の上に稲穂を配した長熨斗(ながのし)。熨斗おさえに金色の宝珠。輪は〆縄飾り。垂れは前日は塩瀬(絹織物)に金糸にて三社紋刺繍。後日は真紅の塩瀬に金糸にて波、日の出を刺繍。






お慶が寄進した油屋町の傘鉾
写真提供/DEITz株式会社 ナガサキ・フォト・サービス事業部


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