今ではすっかり長崎の景観に溶け込んでいる旧外国人居留地だが、かつてこのエリアは、周囲の町とはまるっきり違う外国人文化が成り立っていた。今も残る洋館とかつての住人の秘話とともに、当時の外国人居留地の風情を感じ、居留地の魅力を再発見してみたい。


ズバリ!今回のテーマは

「洋館で、居留地時代の風を感じる!」 なのだ




今年は、安政の開港が行われた安政6年(1859)から150年目の記念すべき年。オランダや中国に限られていたそれまでの海外との交流が一変。「安政五カ国条約」の締結によって開かれた長崎の町には、一気に滞在権と貿易権を得た、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの貿易商人らが集まった。

開港と共に始まった長崎港に面した大浦とその周辺の埋め立て、背後に広がる東山手、南山手の造成に始まり、小曽根築地から出島まで約11万坪に及ぶ長崎外国人居留地が完成したのは、慶応2年(1866)だった。

後にポルトガルとプロシアも加わり、10年が過ぎる頃にはこれら全ての国が領事館を設立。明治20年頃には、大浦海岸通りには商社や銀行、ホテルなどが建てられ、その裏通りは製パン所、理容院、洋装店などが軒を連ねる商店街、大浦川沿いには船員達が集うバーが建ち並んだ。

150年前の安政の開港を機に、まさしく長崎は鎖国期の出島時代から進化した国際的な貿易都市となり、さらには世界中から集まって来た人々が各自の文化を持ち込み、繁栄させた異国文化が定着していったわけだ。

持ち込まれた文化は数限りなくあるわけだが、なかでも、形あるものとして挙げられるのが、今も残る数々の建造物だ。

異人街を形成していた居留地には、ピーク時、800余りの洋風建築物が建ち並んでいた。最初に造成された東山手の丘にはアメリカ人の住宅が多く、日本最古のプロテスタントの教会「英国聖公会会堂」や、現在、日本各地に点在するミッションスクールの基盤となった学校や職員住宅、また、領事館などが数多く建てられたため領事館の丘とも呼ばれた。先日、長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授は、昨年9月、英国立公文書館で、長崎英国領事館が本国に送った報告書の中から江戸時代末期に創建された「英国聖公会会堂」完成直後のスケッチ図を発見したことを発表した。そこにはグラバーの署名も記されていて、同教会の管理人をグラバーらが務めていたことも判明したそうだ。居留地の主流は英米人らのプロテスタントで、最も大切な教会だった英国聖公会会堂の詳細がわかることで今後、さらに当時の居留地の様子が明らかになっていくだろう。今後の研究結果が楽しみだ。

それでは、現存する洋館とかつての住人やゆかりの人物に触れていくとしよう。 今年4月23日〜11月30日に「長崎さるく幕末編−龍馬が歩いた「ながさき」をさるこう」が実施され、それにともない、居留地エリアに現存する洋館が、資料の展示だけではなく、飲食や音楽、地元の人々との交流が楽しめる空間としてゆかりの国をテーマに開放されている。こちらの方もぜひチェックしておこう!
 

領事館や学校が建ち並んだ
ヒガシヒル、東山手の丘へ

東山手甲十三番館

大浦海岸通側の電停側から東山手の丘へ。活水学院へとのびる急な石畳の坂道、そう!オランダ坂も、江戸後期、居留地造成の際に切り開かれた。当初は切通しとも呼ばれ、道幅も今の3分の1ほどしかなかったという。「オランダ坂」と刻まれた石碑横で記念写真を撮るのが定番中の定番だが、その際の背景は決まって旧フランス領事館、東山手甲十三番館だ。この木造二階建て寄せ棟造りの建物が建造されたのは、明治後期、明治25年〜27年のことと推測され、現在は国登録有形文化財。

この建物の魅力を活かし、当時の住人の暮らしをイメージできる空間にしようと一部改修が行なわれ、長崎さるく幕末編の開催を機に、今年4月から一般開放されている。これまで見える範囲の外観だけで満足していた方!お出かけの日が訪れました! この洋館、創建当初は賃貸住宅として建設され、旧香港上海銀行長崎支店支店長の英国人などやホーム・リンガー商会の従業員などが居住。昭和の初めから半ばにかけてはフランス代理領事、アンドレー・ブキリ氏が住み、昭和33年に亡くなるまで、領事館としての役割を果たしていた。ブキリ氏はフランス領時代のベトナムでサイゴン警察署長を務めるなどの要職にあった人物で、朗らかながらも厳格で気難しい一面もあったという。戦時中、昭和19年には県内各地から佐賀県小城市清水の収容所へ連行され、約10ヶ月の間、苛酷な生活を強いられたという。また、ブキリ氏は日本人女性と二度結婚。現在は、長照寺の墓域にある二人の妻と共に眠っている。東山手甲十三番館は、後にブキリ氏の養女となった勝本ミツヨさんが活水の学生相手の下宿をはじめ、その後は近年まで喫茶店として開放されていた。
 

2階、部屋の隅にさりげなく置かれた椅子に腰をかけると、南山手に建つ国宝・大浦天主堂が見える

窓、網戸の造りも素敵。椅子に腰をかけ、しばしの間、この空間を満喫したい

長崎さるく幕末編ではフランス交流館として活用。アンティークの椅子に腰をかけ、ゆったりしや時間を過ごしてみると、かつてこの部屋で生活していた人々のライフスタイル、好み、目にした風景…イマジネーションがかき立てられるシチュエーションを満喫できるのではないだろうか。コーヒーサービス(有料)もすでに訪問客に好評を得ているそうだ。

【東山手甲十三番館】

開館/9:00〜17:00
休館日/12月29日〜1月3日
入館料/無料
TEL/095(829)1013
 

フランス交流館に対し、かねてより旧居留地私学歴史資料館として、居留地時代、東山手にあったミッションスクールの歴史を紹介している東山手十二番館アメリカ交流館

東山手十二番館

この建物は、明治元年(1868)年頃、ロシア領事館として建設されたが、その後、アメリカ領事館としても利用されてきた。なかでも後世に語り継がれている最も有名な住人は、メソジスト派の宣教師であり、東山手六番に建てられた男子校・鎮西学館の第五代校長を務めたアービン・コレルとジェニー夫人だろう。二人が住む頃、この東山手十二番館はメソジスト宣教師館となっていた。
その際、妻のジェニー・コレルがアメリカ人船員と日本人女性との恋愛を目撃し、その話を作家である兄弟のジョン・ルーサー・ロングに伝え、『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』というフィクション化した物語が誕生したのだ。これは、原書に、蝶々さんは「ヒガシヒル」つまり東山手に住んでいるとあることにも合致するエピソードだ。
※2004.11月ナガジン!特集『オペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)が知りたい』参照
大浦・東山手地区に現存する洋館群のなかでは最も古く、しかも領事館建築としては、全国的に見てこれほど早期のものは他に例がないという。
規模が大きく、全体にゆったりした間取り、正面と側面に設けられ、ベランダが魅力的な建物。


かつての住人達も眺めただろう窓越しの風景
【東山手十二番館】
開館/9:00〜17:00
休館日/12月29日〜1月3日
入館料/無料
TEL/095(827)2422


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