作曲家プッチーニからも賛辞を受けた蝶々夫人を演じる三浦環の像/グラバー園

長崎の女性の悲恋を描いたオペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』の初演はミラノ・スカラ座(イタリア)にて1904年2月17日に行なわれた。今年は、その初演の年から100周年を迎え、長崎では再び『蝶々夫人』に注目が集まっている。今回は長崎で誕生したオペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』の内容ついて、またその魅力により迫ってみよう。


ズバリ!今回のテーマは

「『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』を知れば長崎がもっと好きになる」なのだ



オペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』
誕生の成り立ちを知りたい!

オペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』のメロディックなアリア『ある晴れた日に』は、オペラ(歌劇)をあまり知らない、という人にも広く知られている。この作品の舞台は19世紀末の長崎。イタリアの古都ルッカ(トスカーナ州都フィレンツェの西にある都市)出身の作曲家・ジャコモ・プッチーニによって作曲されたこの作品は、代表的なイタリア・オペラのひとつだ。

プッチーニは、ダヴィッド・ベラスコの戯曲『蝶々夫人』を観て、台詞の英語がよく分からないにも関わらずその内容に感激し、オペラ化を思い立ったといわれている(プッチーニはイタリア人)。このダヴィッド・ベラスコとは、ポルトガル系移民の長男としてサンフランシスコに生まれ、幼少期から演劇と関わり、俳優・監督兼脚本家として活躍したニューヨーク一のプロデューサーといわれた人物。彼がどの劇をどの俳優を使って上演しても観客を呼び寄せることができたという凄腕だ。


ジャコモ・プッチーニ像
/グラバー園

このベラスコが明治33年(1900)頃、無名の若いアメリカ人女性、ブランチ・ベーツをスターに育て上げようとしていた。そこで2年前にセンチュリー・マガジンで目にしたアメリカ人作家、ジョン・ルーサー・ロングの『蝶々夫人』を思い出したベラスコはロングに連絡を取り小説を劇化するための許可を得る。
そして、何とわずか数週間のうちに『Madama Butterfly:A Tragedy of Japan(蝶々夫人・日本の悲劇)』というメロドラマが仕上がり、同年3月5日、ニューヨークのヘラルド劇場で公演されたのだった。

プッチーニはこの公演を見た後、おそらくすぐに製作に取りかかり、1900〜1903年の約3年間を費やして作曲に励むことになる。そして誕生したのがオペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』だ。




オペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』

あらすじが知りたい!

長崎が舞台ということと、アリア『ある晴れた日に』以外は情報を持たないという人のために、オペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』のあらすじを解説しよう。
アメリカ海軍中尉(B・F・ピンカートン)が異国の地(日本の長崎)で戯れにした結婚。そうとは知らず夫が去ってからもただひたすら信じて帰りを待った元士族の娘、15歳の少女・蝶々さん(蝶々夫人)は、3年後に裏切られたことを知る。自分と夫・ピンカートンとの間に生まれた子どもの未来を夫とアメリカ人の本妻に託し自らの誇りを守るために自殺するという典型的な悲劇。
かの有名なアリア『ある晴れた日に』は、ピンカートンの“きっと帰る”という言葉を信じ待ち続ける蝶々さんの決意の場面で歌われる。


赤ん坊と遊ぶ蝶々さんとスズキ
(原作「蝶々夫人」より)

プッチーニがベラスコの戯曲『蝶々夫人』に感激した理由は主に次の3つ。
1. ヒロインである蝶々さんがプッチーニ好みの“薄幸で一途に愛を信じる美少女”だったこと。
2. また、そのヒロインが“自らの名誉を守るために静かに死を受け入れる”という気高い精神の持ち主だったこと。
3. そして、当時、浮世絵や日本の伝統工芸、建築物などがヨーロッパに紹介されたために起こった日本ブームの最中、“日本が舞台”の“異国情緒”にあふれた作品だったこと。

蝶々さんは、長崎オマラ地区の士族の娘(“オマラ”は歌劇での呼び方で、現在の大村市と思われている)。また、父親がいないことで家が没落し親戚からもかなり冷たい仕打ちをされていた。歌劇では、蝶々さんの家は昔は裕福だったが、士族の父親が天皇の勅令によって切腹したために貧乏となり芸者となったとされている。
2人の結婚は、ピンカートンが蝶々さんを100円(現在では100万円相当と考えられる)で紹介してもらっていることから、ある種の人身売買とも考えられる。現に現在演じられている「パリ改訂版」の前のミラノ・スカラ座での初演版で、蝶々さんはピンカートンに開口一番「この私を100円で買って頂き感謝致します」といっている。
しかし、蝶々さんはこの結婚を「真の愛による結婚」と信じた、とても純情な少女で、その一途な思いは夫の帰国後3年を経ても全く変わることがない程強烈なものだった。そして、結婚3年後に夫に裏切られたと判った時に、一度は日本を捨ててまでアメリカ人の妻となった身、元の芸者稼業に戻るのは死よりも辛いことと、大切な息子を夫と真の妻に託し、自らは誇りを守るために父の形見の短刀で自刃するのだ。


自殺の準備をする蝶々さん
(原作「蝶々夫人」より)

そんな誇り高い蝶々さんの姿は、欧州や米国に来る日本人を見て、欧米人が“世界中で稀に見る誇り高き民族”と賞賛することが多かった当時の日本人女性のイメージそのものだったようだ。
そして、そんな蝶々さんとは対照的に、ピンカートンには当時ヨーロッパの人々が自国の歴史をあまり持たないアメリカ人に対して持っていた“自由で気まま、裏を返すと軽薄”というイメージが見え隠れしているといわれている。


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