豪商外国人のステイタス!
豪邸が点在する南山手の丘

南山手には、安政の開港を機に、再びキリスト教を布教する目的を持ったパリ外国宣教会が派遣したプチジャン、フィーレ両神父によって、大浦天主堂が建立され、周辺には、トーマス・ブレイク・グラバーをはじめとするイギリス人の住宅が建ち並んだ。

ご存知のように旧グラバー住宅は、クローバーの形をした、日本最古の木造洋館。長崎の人にとっては有名すぎるグラバーだが、その人柄はあまり知られていない。何せ、日記はもちろん、手紙などの書簡もほとんど残されていないのだ。しかし、グラバーの人柄を垣間みるエピソードがこの洋館で起こっている。グラバー邸が今の形態になる以前、その一部に先輩商人であるマッケンジーの邸宅があった。数年の間、中国に戻ったマッケンジーだったが、後にグラバー商会に加わるとグラバーのパートナーとなり、倒産の時を迎えるまで新設された大阪支店の支店長として勤務した。しかし、その後不治の病を患い長崎へ戻ることとなる。その際グラバーは、先輩商人であるマッケンジーが亡くなるまでの日々、グラバー邸において温かく面倒を見たのだという。


旧グラバー住宅
※2002.3月ナガジン!特集『長崎に眠る異国の人々』参照

グラバー園内には、幕末・明治期に建てられた9つの洋館が存在する。その中で、国の重要文化財に指定されているのが、元々現在の場所に建てられた旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅。これらの住宅の主は、全て英国人だ。それにちなみ、園内でとっておきの眺望を誇る最高部に建つ旧三菱第2ドックハウスは長崎さるく幕末編ではイギリス交流館として活用されている。明治29年(1896)、三菱重工長崎造船所第二ドックの側に建てられたものが、ここに移築された。当時、ドック入りした船の修理が終わるまでの間、船員達が宿泊するための施設として整備され、時には外国人船員も宿泊することもあったため、洋風建物になったのだそうだ。

旧三菱第2ドックハウス


長崎港口から市街地までを見渡せるベランダ

※2002.9月ナガジン!特集『グラバーが住んだ丘〜グラバー園・満足観光ナビ〜』参照

【グラバー園】
開園/8:00〜18:00(最終入園17:40) ※ 期間により異なります。詳しくはホームページで。
休館日/年中無休
入園料/大人600円・高校生300円・小中学生180円
TEL/095(822)8223
   

グラバー園へのもうひとつのアプローチ方法、グラバースカイロードで一気に登って来られた観光客の入場口が、旧三菱第2ドックハウス横にあるが、その途中、大浦展望公園横にちょっとメルヘンチックな石造りの洋館がある。グラバー園に近接して建つこの洋館からの眺めも長崎港を見下ろす絶景。ちょうど大浦天主堂脇の「祈念坂」を登ってきた場所にあたるこの南山手乙二十七番館は、居留地初期の住宅で、おそらく元治元年(1864)から慶応元年(1865)の幕末に建造されたと推測されるため、旧グラバー住宅に継ぎ、長崎で最も古い洋館のひとつといわれている。


南山手乙二十七番館

初期にはグラバーの弟が住み、明治の中頃からは英国人の炭鉱技師ジョン・M・ストダートが住んだ。ストダートは、グラバーに雇われ、高島炭坑の監督官として24歳で来崎。彼は長崎を愛し、九州各地の炭坑開発で大活躍をしながら、妻と一緒にこの場所で暮らした。しかし、あるとき上海で流行性感冒、今でいうインフルエンザにかかり、船中で重体に。長崎に到着した時には衰弱していたがこの祈念坂を登り妻の待つ家に帰ったが、翌日、愛する妻の腕の中で息をひきとった。この洋館には、そんな切ない物語が残されている。


大浦天主堂横の祈念坂をのぼると辿り着く洋館。ゲートからは大浦天主堂の屋根が見える



広々とした前庭を眺めながら、ゆっくりとした時間を過ごしてみたい
この洋館の最大の特徴は、外壁は石造りでありながら、木柱と石柱を併用していること。ストダートの住宅後は清水氏私邸となった。平成15年からは南山手レストハウスとして開放され、長崎さるく幕末編では世界遺産資料館として、活用されている。

【南山手乙二十七番館(南山手レストハウス)】
開館/9:00〜17:00
休館日/12月29日〜1月3日
入館料/無料
TEL/095(829)2896
 

英国、メリーポート生まれのウィルソン・ウォーカーの居宅として、明治中期に建造された薄桃色の愛らしい外観が印象的な洋館が南山手八番館。ウィルソン・ウォーカーは、弟のロバート・ウォーカーと共に若くして船乗りとなり、まるで導かれたかのように、この長崎の地に辿り着いた。


南山手八番館


兄ウィルソンの来崎は明治元年(1868)。船長としてグラバー商会に雇われた後、ホーム・リンガー商会から郵便汽船三菱会社に転じて、日本と上海間の航路の開設に尽力した。また、明治22年(1889)から明治25年(1892)にかけて、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」という麒麟麦酒株式会社の前身の支配人として活躍、日本のビール業界の確立に貢献した。
一方、弟ロバートは明治19年(1886)長崎に移住。しかし、当時船長を務めていた高千穂丸の沈没により英国へ帰国することとなる。そして明治31年(1898)に再び長崎へ戻り、地元企業や労働者数百人を使い、海運業や輸入品の品質管理を行う「ウォーカー商会」を設立した。彼の最大の功績は、明治35年(1902)、小曽根町に建てたレンガ造りの倉庫を利用して日本最初の清涼飲料水製造工場「バンザイ清涼飲料水製造工場」を開業したことだろう。ちゃんとしたネーミングが施され、ラベルが貼られ、しかも当時としては大量に生産された清涼飲料水としては日本初のブランドだった。
祈念坂沿いに今も残る旧ロバート・ウォーカー邸の表札
この工場は、居留地と日本人の架け橋としてロバートが息子であるウォーカーJr.へ託した(ウォーカーJr.とはグラバー園内にその一部が移築された旧ウォーカー住宅の旧主)。近年、復刻版が販売され、その名も親しみあるものとなっている「バンザイサイダー」。甘味料が昔も今も、砂糖を使っているというところが、いかにも長崎らしい飲み物だ。

さて、かつてウィルソン・ウォーカー邸があった場所は、現在、松が枝から大浦天主堂へと続く坂の途中、妙行寺前の旧南山手十二番。昭和3年(1928)、医師の雨森一郎氏の所有となり、雨森邸と呼ばれたが、平成4年に現在の場所へ移築、復元され、南山手地区町並み保存センターとして地元の人達に、また訪れる多くの観光客に親しまれる施設となっている。さるく幕末編としては、かつてのロシア領事館に近いということもあり、ロシア交流館として展示活用されている。

入港した船の汽笛が間近に聴こえる、前庭を望むベンチ

一方、ロバートがバンザイ清涼飲料水製造工場として利用した小曽根町のレンガ造り倉庫も現存している。グラバー園の下段に通る裏通りと国道499号との交差位置にそびえる大きな赤レンガ造り建物。壁面には現在使用されている宝製鋼株式会社と大きく記されている。街角に、さりげなく現れる100年以上前に建てられた居留地時代の建物は、長崎の異国情緒漂う佇まいに今も一役かってくれている。


宝製鋼株式会社
※2002.3月ナガジン!特集『長崎に眠る異国の人々』参照

【南山手八番館(南山手地区町並み保存センター)】
開館/9:00〜17:00
休館日/12月29日〜1月3日
入館料/無料
TEL/095(824)5341
 

南山手乙九番館
は、明治中期に住宅として建てられた寄棟造桟瓦葺の木造2階建て洋風住宅。建築主は居留地時代に下り松41番地(現在の松が枝)で、長崎港に入港した艦船などに薪や水を提供したり、港湾労務者などの斡旋を行なったりする一般代理店業などいくつかの事業を営んでいたロシア人、G・ナパルコフだ。老朽化のため平成4年から5年にかけて半解体修理を実施。その後、版画家、田川憲版画展示室として利用され、平成14年からは須加五々道美術館として活用されている。



南山手乙九番館

往時の暮らしぶりが伺える1階、出入り口の空間


復元は、往時の柱などをそのまま生かして行なわれた。建設当時も正面の1階と2階にベランダが造られていたそうだ。屋根には、明治期の洋風建築物の特徴といえるマントルピース(暖炉)の煙突がそびえ立ち、長崎港との美しい風景を構築している。

※2003.3月ナガジン!ミュージアム探検隊『須加五々道美術館』参照
 
グラバー園内に位置する旧オルト住宅。長崎港を見下ろす絶景と、豊かな緑に恵まれたこの住宅に隣接する南山手十五番の広大な敷地に、1900年代初頭、一人の貿易商が私邸を建造した。貿易商の名前は、シグマンド・デービッド・レスナー。大正15年(1926)からは、杠葉(ゆずりは)病院所有のこの杠葉病院別館の建物が、旧レスナー邸だ。


旧レスナー邸
レスナーは、オーストリア国籍のユダヤ人で、貿易、雑貨商を営みながらオークション業で莫大な財をなした人物。その手法は、居留地から本国へ帰る外国人の家財道具や収集品をオークションにかけるというもので、長崎の骨董商が集まったという。しかも、彼は商才に長けた人物というだけではなく、道を造ったり、街並みをきれいにしたりして、随分長崎に貢献をした。長崎に住むユダヤ人住民の社会的指導者であり、居留地に住む外国人達からの人望も厚い人間だったのだ。
居留地時代、長崎に居住した多くのユダヤ人の増加と繁栄の象徴とも呼べるのが、明治29年(1896)に建造された「梅香崎ベス・イスラエル・シナゴーグ」。レスナーは、彼らの宗教上の指導者でもあった。しかし、日露戦争では有利に働いたオーストリア国籍が、第一次世界大戦で苦しい立場に立たされ、敵国ということで政府により営業停止の命を受ける。戦争が終わり再び開店したが、大正9年(1920)、突然の心臓発作で60年の人生に幕を下ろした。梅香崎に建造されたシナゴーグなき現在、唯一、長崎の地にユダヤ人社会があったことの名残を留めているのが、坂本国際墓地のユダヤ人区域。この中央に胸像がある。国際墓地で唯一の胸像こそがレスナー、その人だ。当時の英字新聞『ナガサキ・プレス』には、彼の葬儀の模様がこう綴られている。「知名度、人望共に余人の追随を許さない故人のために、あらゆる国籍、業種、宗教の外国人達が葬儀に参列した。」

個人所有で、観光施設ではないため内部に入ることはできないので、外観のみの見学。窓飾り、柱頭とアーチ型の欄間飾りが特徴的だ。

※2002.3月ナガジン!特集『長崎に眠る異国の人々』参照
   

2階までがレンガ造り、3階は小屋裏をうまく利用した木造。閑静な住宅地、木々に包まれ静かに佇むマリア園は、今も周囲に居留地時代の余韻を放っている。
大浦天主堂、プチジャン神父の嘆願に応え、幼きイエズス修道会からフランス人シスターが来崎。最初の一行は明治10年(1877)に到着し、南山手に聖心女学校(後の清心女学校)を開学した。その後、本学校は大浦五番へ移転、さらに聖イエスの孤児院、マリア園があった南山手十六番へ移転、途中上野町にあった常清女学校と合併した。そんな中シスター達は、学校と孤児院を経営しながら、ときに看護婦としても働いた。この最初のフランス人修道女派遣団として「玄海丸」に乗り来崎した一行の中に、シスター・聖エリーという修道女がいた。「ナガサキ・プレス」の記事には、 「教育と慈善と日本人シスター育成の活動に献身して、生涯の大部分を長崎で過ごした」とある。 早い段階で信徒達の修道会管区長に選ばれていた聖エリーは、さらに長崎、熊本、神戸、大阪、京都にある7つの繁栄した高等学校や専門学校の校長を務め、実に50年以上も長崎に滞在したという。

現存する児童養護施設マリア園の建物は、明治31年(1898)に建てられたもの。当初は明治13年(1880)、フランスから来日したイエズス会の修道士達によって、布教や貧者の救済を目的とした日本における旧イエズス会修道院日本本部、礼拝堂を持つ木造施設が建造された。後にフランス人でマリア会修道士センネツの設計により現在のレンガ造りの建物に建て替えられ、ロマネスク様式の建物となった。このセンネツが設計した建物は、同じレンガ造りの海星学園本館がある。昭和25年(1950)、イエズス会修道院本部は兵庫県に移転し、その後は、幼きイエズス修道会の清心修道会と養護施設マリア園として使用されている。

マリア園

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