海の玄関口に悠々と建つ
松が枝、大浦海岸通の洋館
 
大浦海岸通りに面するレンガ造り二階建てのギリシャ美術イオニア式が印象的なこの建物は、明治41年(1908)に建造された旧長崎英国領事館


旧長崎英国領事館
英国技師ウィリアム・コーワンの設計に基づいて建設された。しかし、イギリスは開港時より領事を置いたわけだから、この建物が建つまで、49年もの年月がある。はじめに英国領事が仮設されたのは、フランス同様に妙行寺だった。初の領事はジョージ・モリソン。しかし、彼の到着までの二ヶ月間、函館領事に任命されたC.ペンバートン・ホドグソンが代行した。しかし、ホドグソンも、後に来崎したモリソンも、妙行寺での生活環境に不満を抱いていたようだ。

「(略)地球の果てに送られてしまったこと、あるいは社会と故郷との関わりから全く遠のいてしまったこと。不快な環境にさらされ、予期しがたく我慢できないほど残酷な苦境に立たされていることを考えれば、給料の値上げは当然のことではないだろうか。(モリソン)」
しかし、モリソンは在職2年間に素早く大事な仕事を行ない、その手腕をみせている。まず、長崎在住の英国人のために規定を設定し、日本政府と役人と外国人居留地内の生活状況と貿易条件を交渉。英国領事館の拡張計画を企画し、長崎の開港条約の基準を設定した。
また、冷静に長崎の長所・短所を見抜き、「長崎は近い将来横浜と神戸に追い越されるであろう」と予見した。モリソンが長崎を離れたのは、攘夷論をめぐり長崎が外国人にとってとても危険な場所になっている時期だった。一説には、グラバーから「モリソン暗殺計画」の噂を告げられたことも帰国を早める要因だったともいわれている。
歴代の領事達の長年の幾多の苦労を経て、大浦海岸通りに今も誇らしく建つ旧英国領事館。本館はレンガ造りの2階建てで、1階は事務室、2階は領事の住まいとして使われていた。本館背後に建つレンガ造りの平屋は、ボーイ室やクーリーと呼ばれる中国人やインドネシア人の労働者室、コック室に使用されていた付属屋。そしてその奥のレンガ造り二階建てと木造二階建ての付属屋が、旧英国領事館職員住宅だ。現在、「オランダ通り」と呼ばれるオランダ坂入口側のレンガ塀なども残っていて、往事の風情を醸し出しているが、現在、老朽化のため使用に制限が出されている。ただし、長崎さるく幕末編では、イギリス交流館として臨時活用する予定。


本館背後に建つ旧英国領事館職員住宅

「オランダ通り」に面したレンガ塀
【旧長崎英国領事館】
開館/現在休館中
TEL/095(829)1314(長崎市さるく観光課)
 

旧香港上海銀行は明治29年(1896)に長崎支店を開設。明治37年に竣工したこの建物は、明治から昭和初期の建築界の異才・下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構で、長崎市内の煉瓦及び石造洋館として最大級のもの。この支店は当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人、なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドン・上海・香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行だった。この香港上海銀行長崎支店を利用していた貿易商の1人に、前述した「バンザイ清涼飲料水製造工場」を経営したロバート・ウォーカーもいた。外観の壮麗さから内部の華麗な装飾に至るまで目を奪われる程美しい洋館。


旧香港上海銀行長崎支店記念館


正面2、3階の大きな通し柱には、ギリシア風の装飾。この柱越しに眺める風景はまさに圧巻


往時の風情を垣間みる、赤絨毯が敷かれた螺旋階段

旧長崎税関下り松派出所
現在の旧香港上海銀行長崎支店記念館は、旧長崎英国領事館や旧長崎税関下り松派出所長崎市べっ甲工芸館)と共に明治期の海岸通りの風景を形成していた当時の現存する建物であることから、往時のロマン溢れる長崎風景を思い起こさせるものだ。

※2004.10月ナガジン!ミュージアム探検隊『旧香港上海銀行長崎支店記念館』参照


【旧香港上海銀行長崎支店記念館】
開館/9:00〜17:00
休館日/12月29日〜1月3日
入館料/大人・高校生100円・小中学生50円
TEL/095(827)8746

 

鎖国期の唯一の窓も居留地へ
江戸と明治時代が混在する出島


旧出島神学校

鎖国時代、218年もの間“世界に開かれた唯一の窓”の役割を果たした出島も、開国後は、外国人居留地の一部となった。現在、出島は19世紀初頭の姿に復元されているが、その中に、今なお外国人居留地の面影を残す建物が現存している。長崎が生んだ偉大な版画家・田川憲氏。彼は、主に1930年代から1960代にかけて、長崎港や外国人居留地の洋館、唐寺をはじめ長崎の各地の風景などを描き残しているが、彼の『出島』という作品にその二つの洋館が描かれている。ひとつは、旧出島神学校だ。この建物は、明治11年(1878)、ハーバート・モンドレルによって建立された日本最古のプロテスタント神学校跡。
前述したように、開港直後、東山手の丘にはC.M.ウィリアムズによって日本初のプロテスタント教会、「英国聖公会会堂」が建設されていた。C.M.ウィリアムズは、もともとアメリカ監督教会の宣教師だったのだが、実際に資金を出し、運営したのは、英国教会のチャーチ・ソサエティ、CMSだった。結局、C.M.ウィリアムズが日本に滞在した約7年間の滞在中に、改宗者が現れることはなく、その後、中国と日本の主教に任命されC.M.ウィリアムズは大阪駐在となったため、東山手のチャペルはイギリス聖公会が引き継いだ。そのイギリス聖公会が、後に独自の本部を出島に構え、そこに隣接した出島十番にモンドレルは、神学校を建立したのだった。
旧出島神学校の傍らには記念碑が建っている

もうひとつ描かれている洋館は旧長崎内外クラブ


旧長崎内外クラブ

ここは明治32年(1899)、トーマス・ブレイク・グラバーの息子・倉場富三郎、横山寅一郎、荘田平五郎などが発起人となり設立された「長崎内外倶楽部」があった建物で、現在の建物は、明治36年(1903)、英国人フレデリック・リンガーによって建てられた出島最後の外国人所有の英国式明治洋風建造物だ。長崎に暮らす外国人と日本人との親交の場として利用され、館内では、新年祝賀会や晩餐会、ビリヤード競技会、囲碁指導会などなど、いろんな行事が開催されたという。
フレデリック・リンガーといえば、グラバー園内の豪邸の持ち主。広東で茶の熟練検査官をしていた彼は、元治元年(1864)、グラバーによって長崎に招かれ、グラバー商会の製茶及び輸出の監督として入社。そして、4年後の明治元年には、グラバー商会ののれん分けという形で同僚のE・Z・ホームと共に「ホーム・リンガー商会」を開設した。開設間もなくホームは英国へ帰り、グラバー商会も倒産したので、リンガーは、グラバーに代わって居留地で最も有力な商人となった。明治31年(1898)、「東洋一壮大なホテル」の建設計画と共に大浦海岸通り・香港上海銀行長崎支店の隣にオープンさせた「ナガサキ・ホテル」は、3階建ての華やかなレンガ造り。50もの客室、広いベランダから港を見下ろす最高級の部屋をはじめ、125名を収容できるダイニングルームがあり、日本初の全室電話、自家発電、冷蔵設備を完備するなど、当時、アジアの一流ホテルとなった。リンガーの事業は実に広範にわたっていたが、特にこのホテル業では、長崎の経済に貢献して地元の商社近代化にも大きな影響を与えたといわれている。そんなリンガーが建造したこの建物は、南向きにバルコニーを設けた開港当初のスタイルとなっていて、内部は、同時期に建てられた英国領事館などとよく似ているシックなもの。

調度品、このシックな内装に英国を感じる

窓越しに旧出島神学校を望むこの風景は、内外クラブ全盛時代と変わらないものだろう

長崎さるく幕末編では旧出島神学校はオランダ交流館、旧長崎内外クラブは内外クラブ館として活用されている。
※2006.8月ナガジン!特集『出島2006〜江戸時代の長崎が見えてきた!〜』参照

【旧出島神学校/旧長崎内外クラブ】
開館/8:00〜18:00
休館日/年中無休
入館料(出島入園料)/大人500円・高校生200円・小中学生100円
TEL/095(821)7200(出島総合案内所)
 

現存する洋館は、長い時を経て、当時とは違う形で今も活用されている。入館できる洋館は、ぜひ足を踏み入れ、かつての住人の生活を思い浮かべるなどしてみよう。どの洋館にもかつての住人の歴史あり。窓から見える景色は当時とは必ずしも同じとはいえないが、何かしら同じ感覚を味わうことができるかもしれない。

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