文・宮川密義


今回は蛍茶屋から中島川の沿いに下り、左手(南東側)の町並みにも足を延ばしながら眼鏡橋までのコースで“歌さるき(歩き)”を試みます。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 蛍茶屋
  長崎街道から旅に出る人が別れの盃を交したという蛍茶屋跡。長崎民謡「長崎甚句」に歌われています。
(2) カルルス跡
  明治から大正、そして昭和10年頃まで桜の名所・中川遊園地とカルルス温泉で市民に親しまれたこの一帯は歌にも歌われました。
(3) 若宮神社
  若宮稲荷神社は秋祭りに奉納する「竹ん芸」で知られ、長崎民謡「長崎七不思議」に歌われています。
(4) 亀山社中跡
  勤王の志士、坂本龍馬が活動の拠点とした所。歌にも取り込まれ、「龍馬長崎暦」が11年前に出ました。
(5) 寺町通り
  風頭山の麓、寺町には国宝級の唐寺「崇福寺」など2社14寺が建ち並んでいます。
(6) 中島川
  中島川には数多くの橋が架かり、雨にけむる中島川の風情は雨やアジサイ、眼鏡橋と共に歌にも登場します。
(7) 眼鏡橋
  中島川には長崎観光の目玉の一つ、眼鏡橋が架かり、多くの歌に歌われています。

【蛍茶屋〜眼鏡橋周辺マップ】


(1)蛍茶屋

路面電車(長崎電鉄)を利用すれば、浦上方面からは「3」系統、思案橋方面からは「4」系統、グラバー園のある大浦方面からは「5」系統の終点が「蛍茶屋」です。
その昔、長崎街道を旅立つ人は一ノ瀬橋の脇にある茶屋で別れの杯を交わしたといいます。一ノ瀬橋は承応2年(1653)に唐通事、頴川道隆が私財を投じて架けた石橋で、今も路面電車の終点から奥に入った所にあります。
当時、一ノ瀬川にはホタルが舞っていたということから地名も「蛍茶屋」となりました。
長崎民謡の「長崎甚句」はこの蛍茶屋での別れの情をしみじみと歌ったもので、蛍茶屋を『蛍の茶屋』『藤棚の茶屋』と歌っています。
蛍茶屋を取り入れた歌は「長崎甚句」のほかに、紹介済みですが次の2曲が他の名所と一緒に歌っています。


蛍茶屋にある一ノ瀬橋



1.「紫陽花の詩(あじさいのうた)

(昭和48年=1973、さだまさし・作詞、作曲、グレープ・歌)

バックナンバー「雨にちなむ歌(2)」と前回の「諏訪神社〜鳴滝」でも紹介しましたが、さだまさしと吉田正美によるグレープがデビュー前に自費出版したコンパクト盤(17センチLP)で発表した4曲の中の1曲です。
1番の冒頭に蛍茶屋が登場、中川の川端を抜けて鳴滝へ、2番は思案橋から眼鏡橋へ向かおうとするが、寺町を回って行くか、それとも中通りを抜けるか思案する様子が歌われています。
蛍茶屋も中島川も、アジサイが咲き、雨がそぼ降る長崎の街にはぴったりで、それぞれの魅力を確かめながら散歩する若者の姿がしのばれます。しっとりとした情緒が感じられる歌です。

2.「ばってん長崎」

(昭和50年=1975、出島ひろし・作詞、細川潤一・作曲、江崎はる美・歌)

蛍茶屋や矢の平は名月で知られる彦山の麓にあり、中島川もその麓を流れています。矢の平から蛍茶屋〜中川付近までは明治時代に桜が数多く植えられ、桜の名所として市民に親しまれた時期がありました。
この歌は「名所名物の歌(上)」でも紹介しましたが、長崎を東西南北に分けて名所を紹介しており、盆踊りで人気を集めました。


(2)カルルス跡

バックナンバー「古き良き時代を歌う」にも掲載していますが、蛍茶屋に隣接する本河内から中川、桜馬場あたりは明治末期から昭和10年代にかけて桜が多く、特に中島川河畔の「中川遊園地」(現在の料亭「橋本」の敷地)は桜の名所として市民に親しまれました。
加えて、その向かい側の岸辺にあった温泉はチェコのカルロビ・バリの温泉と同じ泉質の温水に調剤したことから「カルルス温泉」と呼ばれ、人気を集めました。
桜の名所からカルルスに通じる朱塗りの「竜吟橋」も架けられ、中島川の上流にはボートが浮かびました。花見シーズンには名物の桜餅も登場、秋になると遊園地では京都の菊人形も並べられ、冬は彦山の雪景色が素晴らしく雪見でも賑わったそうです。
カルルスを歌ったものは、まず昭和5年(1930)に出た「長崎小唄」と前項「ばってん長崎」の冒頭から登場。さらに昭和10年に出た次の「長崎バッテン節」にも歌われています。



左岸に中川遊園地、
右岸にカルルスがあった
中島川上流

3.「長崎バッテン節」
(昭和10年=1935、西岡水朗・作詞、近藤十九二・作曲、虎龍・歌)


昭和10年に行われた長崎開港365年記念の港祭りの際に記念曲としてレコード化された「長崎開港記念歌」「長崎みなと祭小唄」「長崎行進曲」「春の長崎」の4曲のほかに、長崎新聞社が推薦したこの歌と片面の「長崎よいとこ」のレコードも人気を集めました。
「長崎バッテン節」は方言の「バッテン」を囃子ふうに挟み、長崎の町の魅力をうたい上げていますが、3番に当時人気の「カルルス」と夜桜の素晴らしさを取り入れています。


(3)若宮神社

若宮神社は「竹ん芸」で知られる若宮稲荷神社のことで、伊良林にあります。「竹ん芸」は秋の大祭(10月14日〜15日)に男狐、女狐の面を着けた若者が高さ12メートル以上もある青竹の上で曲芸を奉納される行事で、長崎市の無形民俗文化財に指定されています。
歌には民謡に「長崎七不思議」に「古いお寺を若宮と」と歌われているように、歴史は古く、出来大工町乙名(おとな)・若杉喜三太が自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられています。
明治維新後は社殿の近くにある亀山社中(次項に詳述)を拠点にしていた坂本龍馬ら志士たちも参拝したことから勤皇稲荷、勤王人社とも呼ばれています。
なお、若宮稲荷神社は「長崎七不思議」のほかは歌われていないようです。



若宮稲荷神社の鳥居



若宮稲荷の「竹ん芸」


(4)亀山社中(かめやましゃちゅう)

亀山社中は慶応元年(1865)に土佐の浪人・坂本龍馬(さかもと・りょうま)が薩摩藩などの援助で、若宮稲荷神社に近い伊良林の亀山に設立した貿易商社です。龍馬と共に長岡健吉、近藤長次郎ら幕末の激動期を生きた志士たちが、海運業を中心に政治活動にも参加。社中は後になって“海援隊”と改称しました。
亀山社中跡には、幕末の長崎の風景写真や上野彦馬撮影の人物写真、資料などが展示されています。
寺町通りから亀山社中跡を経て風頭公園までの道筋を「龍馬通り」と呼び、市民や観光客に親しまれています。
亀山社中と龍馬を取り入れた歌は次の1曲だけです。バックナンバー15の「歴史上の人物を歌う」でも紹介しましたが、採録します。


亀山社中跡

4.「龍馬長崎暦(りょうま ながさきごよみ)
(平成6年=1994、下田 亮・作詞、中山治美・作曲、秋岡秀治・歌)


平成元年(1989)5月、長崎市内の龍馬ファンらによって「亀山社中ば活かす会」(針屋武士会長、会員約140人)が結成され、亀山社中跡を中心に伊良林・風頭地区の歴史や文化を守りながら地域の活性化に生かす活動を続けています。また、同年5月21日には風頭公園に龍馬の像が建てられました。
この歌は、龍馬ファンの一人、長崎市内の下田亮(しもだ・あきら)さんが、龍馬の生誕160年に当たる平成6年、龍馬の功績をたたえる歌詞を書き、同市内の中山治美(なかやま・はるみ)さんが作曲、演歌歌手の秋岡秀治(あきおか・しゅうじ)さんが吹き込み、CDとテープが全国発売されました。


「龍馬長崎暦」の表紙


(5)寺町通り


晧台寺(右手)前の寺町通り


亀山社中跡から風頭山の麓に沿って南東に歩くと、北の方から光源寺、禅林寺、深崇寺、三宝寺をはじめ、唐寺の崇福寺、興福寺など2社14寺がずらりと建ち並んでいます。
バックナンバー「禁教の悲劇を歌う」で紹介した「踏絵」では、“寺の踏絵につれられて…”と歌っています。踏絵は各宗寺院の住職、諏訪神社の宮司や士分の者には免除され、市中一般の踏絵が終わった後、市内の唐寺に寺社役人が出向いて踏絵を行っていたようです。
「寺町」としては歌にはあまり登場しませんが、冒頭に1節だけ紹介したグレープの「紫陽花の詩」、そして次に紹介する同じグレープの「女郎花」のように、静かなたたずまいやエキゾチックな長崎の街の描写に使われています。


5.「女郎花(おみなえし)
(昭和51年=1976、さだまさし・作詞、作曲、グレープ・歌)


グレープ二枚目のLP「せせらぎ」に収録された歌。長崎の丸山遊女をイメージして作られたようですが、ここに登場する「寺町」は寂しげなムードが感じられます。


(6)中島川 (7)眼鏡橋

長崎市の中心を流れる中島川は鎖国時代、貿易のための水運利用で重要な役割がありました。寛永11年(1634)にはわが国最古のアーチ式石橋、眼鏡橋が架けられたのを皮切りに石橋が次々に架けられました。
17世紀中の65年の間に架けられた石橋は11橋にのぼり、眼鏡橋は国の重要文化財となり、他の10橋は長崎市指定有形文化財となっていましたが、昭和57年(1982)の大水害で大部分が流失、半壊の大打撃を受けました。
長崎の歌には中島川と眼鏡橋もよく登場しています(「名所名物歌(上)」参照)。そして「あじさい旅情」のように、雨とアジサイと共に雨の情緒には欠かせない要素になっています。


眼鏡橋の上で披露された
「中島川音頭」の踊り

6.「中島川音頭」
(昭和51年=1976、風木雲太郎・作詞、深町一朗・作曲、古場常幸、赤平康子・歌)


中島川とその周辺を市民の憩いの場にしようという「中島川を守る会」の赤瀬守(あかせ・まもる)さん(当時高校教諭)が企画、制作して昭和51年8月30日に眼鏡橋周辺で開かれた中島川夏祭りで発表されました。
作詞した詩人の風木雲太郎(かざき・くもたろう)さんも同会の会員で、作曲の深町一朗(ふかまち・いちろう)さんはNBC長崎放送の音楽部長でした。諫早市の古場常幸(こば・つねゆき)さんと長崎の赤平康子(あかひら・やすこ)さんが歌ってレコードもでき、地元の舞踊家・花柳輔芳(はなやぎ・すけよし)さん振り付けの踊りも花柳社中の皆さんによって披露されました。
レコードの表紙は地元の画家・小川緑(おがわ・みどり)さんの絵に書家・魚谷滄洲(うおや・そうしゅう)さんの題字を配するなど、中島川をこよなく愛する人たちによる“中島川・眼鏡橋賛歌”です。



「中島川音頭」の表紙

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